あの歌をもう一度 後編
カナコは、元いた場所へ戻れず、初めの場所で同じ状況で歌うこともできないでいた。
人が少ないからと、準備を始めると、どこからか人が集まってしまうのだ。
集まりすぎる前に数曲歌って去る。その繰り返しになっていた。
人通りのない夜中にただその場に立つということも、カナコは何回か試した。けれども毎回、夜明けに帰ってきては、夕方まで部屋にこもってしまう。
カナコが笑わなくなったことを、俺もミノルたちも気にしていた。
気分転換になればと、ライブハウスで働いてもらうことにした。カナコはきびきびと動き、客を相手に笑顔にはなる。
だが、笑ってみせているだけだと、俺には思えた。
「カナコさんの歌、聴きたいな」
閉店後、ミノルがカナコにリクエストした。
ここ数日、カナコの歌を聴いていない。家で練習する音も聴いていない。
「俺も聴きたい。ダメか?」
ミノルの提案にのっかった俺の発言に、カナコはぶんぶんと首を横に振った。
「ダメじゃないです」
マイクもスポットライトもないステージに、カナコは立った。
客席の照明はついたまま。観客は俺とミノルだけ。
目を閉じたカナコが歌いだすと、やわらかく心地よい風を感じた。草原が、俺の足元からカナコの後ろのずっと奥まで、なだらかに広がって見えた。
俺は、やっぱり、カナコの歌声が好きだ。
歌が終わり、ほんの少しの静寂のあと、拍手が聞こえた。俺たちの背後から。
驚いて振り返ると、ライブハウスに似合わないスーツ姿のホストみたいな男が、拍手しながらステージのカナコを見ていた。
「すみません、閉店です」
シャッターは閉めていないが、扉の鍵は閉めたはずだ。どこから入ってきたのかと、疑問に思いながら、俺は男に近づいた。
「存じておりますぅ。どうもぉ、はじめましてぇ。驚かせてぇ申し訳ないですねぇ」
間延びした語尾がうざい。顔にはりつけている笑顔は、ツクリモノのように見えた。
足音がして振り返ると、ミノルがステージに駆け上がるところだった。ミノルはカナコを背に隠すように立ち、怪しい男をにらみつけた。
俺はカナコとミノルを背にして、手近にあったモップを掴み、男に向き合った。
「ええとぉ、手荒なことはぁ勘弁してくださいぃ」
男は両手を前に出して、こっちに来るなというジェスチャーをした。その素振りも胡散臭く見えて怪しさが増すばかり。
「おまえは、なんだ?」
ケンカは嫌いだが、毎日重たい機材を運んだりしているから力には自信がある。俺はモップを握る手に力をこめた。
「私はぁリディと申しますぅ。そちらのぉ歌い手さんをぉ本来の世界にぃ戻してさしあげようとぉ来ましたぁ」
カナコを、本来の世界に。
「ほんと?」
そう言ったカナコの声は明るくはねていた。
「カナコ」
ミノルの鋭い声がして、俺はちらりと振り向いた。ミノルのすぐ後ろから、カナコが男を見ていた、目を輝かせて。
「本当ですよぉ」
「証拠を見せろ!」
男の言葉にかぶせて、俺は怒鳴っていた。
「なにの証拠、ですかぁ?私がぁ異なる世界へ渡れるぅ、という証拠、ですかぁ?それともぉ、私がぁ、カナコさんのぉ元の世界をぉ知っているという証拠、ですかぁ?」
「両方だよ!」
怒鳴りながら、そんなことを知って自分がどうするのか、わからなかった。
ただ、カナコの歌が聴けなくなるのは嫌だと思ったんだ。
「鍵がかかっているココにぃ私が現れたのはぁ、世界を渡れるからぁですよぉ。鍵がかかっていることをぉ確認してこられますかぁ?」
「鍵をかける前から隠れていた可能性があるだろう」
隠れていられる場所などないと、俺が最も知っている。けれど。
「なるほどぉ」
怪しい男はそう言って、手で顎を触った。
「ではぁ、カナコさんが歌っていた歌はぁ、シズクという人気のない歌手の曲、ですよねぇ、という事実はぁいかがですかぁ?」
「人気ないなんてない!これからなんだ!」
そう叫んだのは、カナコだった。俺は思わず振り向いてしまった。
カナコはミノルを押しのけ、怪しい男を睨みつけた。
「シズクは天才なの!大人たちが悪いだけ!まだこれから!きっと、もっと!」
これほど激しく感情を露わにしたカナコを見たのは初めてだった。
言葉が途切れたカナコの目がキラキラと輝いているのは涙だろう。
「尋ねたことなかったですが、カナコさんが作った曲ではないんですね、やっぱり」
ミノルがそう言うと、カナコはうなだれるようにうなずいた。
「新曲を作ることも他の曲を弾くことも、カナコさんはやろうとしないなって思っていたんです」
そう言ったミノルと目が合った。俺は小さくうなずいた。
俺も気づいていたが、その理由をカナコに尋ねようとは思わなかった。
たまにでも、カナコの歌が聞ければよかったから。新しい曲じゃなくてもよかったから。
「シズク、は、あたし、の、親友、です」
カナコはステージの床にぺたりと座り込んだ。ミノルがその隣にしゃがむ。
俺は背後の怪しい男を気にしながらも、カナコを見つめた。
「シズクは大手の事務所に入ってデビューして、いろんな所へ行って歌った。のに、大人たちは新しい人に力を入れるようになって、シズクは歌える機会がなくなって、自信をなくして部屋に閉じこもってしまった……」
うつむきながら話していたカナコがきゅっと顔を上げた。
胸が痛いのか、耳が痛いのか、俺は息苦しさを感じた。
「あたしはシズクの曲が素晴らしいことを知ってほしくて、公園で歌うことにした。ギターも歌も自信はないし、人前で歌うなんて怖かった」
そうか、だからカナコは目を閉じて歌っていたのか。
「でも、ここに来たら、たくさんの人が聴いてくれた、喜んでくれた!」
カナコは嬉しかっただろう、親友の曲が認められたと感じただろう。
「そうでしたかぁ、よかったですねぇ」
棒読みの見本だった。怪しい男の発言に、みなの顔がこわばった。
俺はゆっくりと振り返った。
男はやっぱりツクリモノめいた笑顔で、俺と目が合うと片方の口角を上げた。その口の端っこに見えたのは、ホンモノの愉悦のようだった。
ほんのわずかに見えた男のホントウに、俺は驚き、やめてくれと言うタイミングを失った。
「みなさんはぁ、シズクさんの曲ではなくてぇ、カナコさんの歌声にぃ喜んだのでしょうねぇ」
「シズクの歌だよ」
かみつくかのように、カナコが反論した。
「作ったのはぁシズクさんでもぉ、歌ったのはぁあなた、でしょぉ?」
「シズクの!曲が!喜んでもらえたの!」
「カナコ……」
床を殴る音がして、俺はゆるゆるとステージを向いた。
そして、カナコの名を呼び、カナコを見つめた。
「俺はカナコの声と歌い方が好きだ。多くの人もそうだと思う」
カナコは目を見開いて俺を見た。その隣でミノルが苦々しい表情をしていた。
「シズクって子の曲だからって人が集まったわけじゃない。カナコが歌ったからこそ曲が生きて、たくさんの人に届いたんだ」
俺の言葉はカナコを苦しめる。そうわかっていても、俺が言わなければならなかった。
「カナコだから、みんな喜んだんだ」
「ちが……」
「シズクって子が大好きで、シズクって子の作った曲が大好きなカナコだからこそ、届けられたんだ」
カナコの肩が震え、カナコの涙がステージの床に落ちるのが見えた。
「あたし、シズクに会いたい。会って、シズクの曲を聴いて喜んでくれた人がたくさんいるって伝えたい」
長いような短い沈黙の後、カナコは顔を上げて、そう言った。
「ああ、そうするといい」
俺が言うと、カナコはしっかりとうなずいて立ち上がった。
「あたしを、連れて帰ってください」
「もちろんですよぉ、それがぁ私のぉ……使命ですからぁ」
怪しい男はやっぱり胡散臭い笑顔で、カナコに応えた。
「いろいろ、ありがとうございました。サヤカさんとミズキさんにもありがとうって伝えてください」
そう言ったカナコはさっぱりとした笑顔だった。
そして、男が開けたドアから出て行った。
二人が消えたドアを、俺は数秒後に開け放った。
だが、そこには誰もいなかった。
「帰っちまった……」
無人の通路を見つめ、俺はぼんやりとつぶやいた。
「こっちの世界にも、カナコさんやシズクさんはいるんでしょうか」
そのミノルの言葉に、俺ははっとした。
「いるかもしれないな。こっちでも歌っていたら、全力で応援するぞ」
「俺も応援します!」
「おう!」
俺は自分の頬を両手でパシっと挟んだ。
あの歌声にいつ出逢っても大丈夫なように、応援できるように、俺もがんばろう。
ライブハウスを出ると、心地よい風が吹き抜けていった。
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