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トラウマ:「規律と勤勉」重視、プロイセン式教育の原点をドイツ映画で観る

トラウマについて、書いておきたいことがいくつかある。

まずは、下のクリップを観ていただきたい。ドイツ語だが、口調と重苦しい雰囲気だけでもほとんど伝わる。とりあえずは、このポストの下に意訳を書いておく。それより、子供達の表情に注目していただきたい。

これは、厳格なプロイセン時代を舞台にしたドイツ映画「白いリボン」(2009年)のシーンだ。この映画は、第一次世界大戦勃発とともに終結し、後味がとても悪い。奇才ミヒャエル・ハネケ監督の反ファシズム・メッセージがひしひしと伝わってくる。どのような文化背景で、ナチスのように残虐な政党が生まれたのか?この子供達は、この時代背景・状況下で、どういう大人になってしまったのだろうか。

ちなみに、日本向け予告編はここ。BGMに使われているプロテスタント聖歌は、のちにナチスのプロパガンダとして悪用された「神はわがやぐら」。映画で一環している不条理で残酷なテーマとともに、この聖歌の不気味さは極まりない。

80年代の日本教育、後に無意味なほど厳しい校規社会問題になった頃の教育を受けた私には、このシーンはとても強く心に残った。2、3分遅刻しただけで、重い校門に挟まれて死亡した女子中学生のケースさえあった。

歴史的には、明治維新後、近代の日本教育・防衛・軍隊・政治制度やフレームワークは、原型はプロイセンのシステム導入によるものが多い。または、直接の導入ではなくとも、影響を強く受けているようだ。典型的に日本文化の一環だといわれている「規律と勤勉」重視の価値観は、実のところは、近代化の際、このプロイセン・システム導入の名残ではないだろうか。

上記の映画には、何かその原点を見せつけられるように強力なシーンがいくつかあった。

すこし話が変わるが、去年から、ドイツ国内でセラピーを受けることになってから、トラウマのトピックでしばらく停滞している。ここ5ヶ月くらい、もだ。セラピストのビアンカ曰く、停滞とは、何かがそこに埋まっており、時間をかける以外に即効的な解決はない、ということだと諭された。

その上、セラピー停滞の同時期、職場で不愉快な同僚が現れた。他人をコントロールしようとする圧迫感のある男性だ。普段は、できるだけ避けているのだが、1月末に続けてその同僚とのトラブルがあった。私は、じりじりと我慢の極限状態追い詰められた

トラブルを簡潔に書いてみると:

  • 突然のごとく、大きなタスクを頼まれた

  • 納期のネゴは可能だが、タスク却下はできないと言われた

要は、これだけである。こう書いてみると、あまりにも単純だが、私の心理的解釈は単純ではなく、毎日のように頭の中で不満が膨れ上がり、あっという間に怒りとなった。その上、その同僚の口の聞き方や圧迫的な雰囲気にも我慢できない。「奴」は、何か私と同意出来ないことがあると、大文字表示のメッセージを送ってくる。これは、欧米ではルール違反どころか、失礼極まりないマナーだ。

そのタスクはなんとか乗り切ったが、このトラブルのおかげで、私の2月は散々だった。

先週、その話をセラピストと話した。「どんな気持ちがしましたか。」とまずはありきたりの質問。そのあとは、「その気持ちは、体のどこにありましたか。何か、体の異変や、不快感がありましたか。」と聞かれた。すぐには、答えられなかったが、セッションが終わってからもしばらくの間、その質問について内省してみた。

まず、体の異変について。「奴」(嫌な圧迫感のある同僚)と話す羽目になると、まず、呼吸をつい止めてしまう、ということに気づいた。そして、表情も、体も硬直する感覚があり、頭痛までする。呼吸を止めるので、つい胸が苦しくなる。テレコール上で自分の顔が見えると、かなり不機嫌な顔をしていた。そのため、「奴」と話すときはカメラをオフにすることにした。呼吸がスムーズにできないので、つい心拍が激しくなる。そのせいで、話をすることが難しくなる。で、つい黙ってしまう。さっさと会話を終えることだけに専念する。緊張感のせいで、胃の調子も悪くなる。

まさしく、上のビデオに出てくる子供たちの表情とそっくりだった。

ここで、考察したいのは前回のポストで考えたことだ。

この部分:
マテ医師:これは、すなわち、私たちは、今、ここでの瞬間を観ていない、ということです。ズバリは、ほとんどの場合は過去に対する反応です。過去の「刷り込み」、トラウマ、の影響が強いのです。』

そういえば、子供の頃、よく、確かにこういう身体的な感覚があった。父親の突然のヒステリー、暴言、暴力、威圧的な態度。上のビデオと、全く同じシーンだった。無言になる母、黙り込む子供たち。また、これか・・・。と、嫌な気持ちに襲われる、そして、とにかく呼吸をとめて息を呑む。心臓がドキドキする。食卓に座っていること自体が嫌でたまらなかった。体が硬直する感覚があった。

無防備だった子供時代に、まったく防衛策がなかった時代に、よく感じていた身体的感覚だった。あれから、私は成長できたのだろうか。まだ、同じことを「反応的に」している、ことに気がついた。

次のポストに続く

おまけ 上のビデオの意訳:
『このテーブルでは、今夜は、家族の食事はありません。(空っぽのお皿)
暗くなっても、あなた二人が(複数兄妹の中の二人だけを指している、が全員が罰せられる)が帰ってこないとき、お母さんは泣きながら村中を探し回りました。 何かが起こったのではないかと心配しながら、皆が食事を楽しめたと思えますか? あなたたち二人が戻ってきて、皆に嘘をつくとき、家族は食事を楽しむことができたと思いますか? 二人が今も不在のままか、無事に戻ってくること、どちらが悪いかわかりません。 今夜は、家族全員が(二人のせいで)、空腹のままで床に就くことになります。』
『私たちが、お互いを尊重しながら生活していくために、私はあなた二人を罰せずに放置することはできません。 明日の夕方、この時間に、あなた方一人一人に杖を 10 回打ちます。 それまで、自分のしたことについて熟考するように・・・。』


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