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今年、「手放したいこと」について英国アルナ・ラタナギリ仏教僧院・修道院長の言葉に学ぶ

ameblo・アメーバーでブログを去年末からはじめた。しかし、アメーバーでは、「じっくり書く」ブロガーが少ないことに気がついた。そこで、今月からnote.comに引越しすることにした。

アメーバーでの前回のポストの終わりにこう書いた。

『新年の誓いとして、今年は「学びたいこと」、「手に入れたいもの」といった欲に関することは避けて、「学びを紐解く」、「手放したいもの」に重点をおくことにした。』

年末年始に、短い休暇でまだ家族や友人のたくさんいる英国に帰省した。その際、あの国は本当に苦しみの多い場所だと心から感じた。また、いろいろと昔の苦しみを思い出した。この件については別途ポストを書く。結論から言うと、国による一種の「システム設定」によって私たちは生きていると感じた。人間自体が、国籍によって異なるのではない。住んでいる国や文化の「システム設定」によって、人間の行動や価値観がある程度形成されるのだと実感した。

英国は、階級制度のある社会だ。この事実を否定する英国人は一人もいない。明らかな事実だ。

私は、英国在住時代に(環境的に)学んでしまった、この階級社会内で生きるための「見かけ、体裁」「見栄」「ステイタス重視」といった価値観をすべて手放したいと心から思った。本音を言えば、今回帰省した時に、私はすでに、フィットしたくなくなった、と感じたからでもある。もう、この「ゲーム」はごめんだ。これは、意識した上での決断だ。

見かけや体裁にこだわらずに生きることができれば、本当に人間は幸せになる。それを知っていながらも、毒々しいシステム設定下で生きる羽目になったら、私たちはどうするか。周りに合わせるため、承認されるための「ゲーム」のために、自分の「心の幸せ」を犠牲にするか?

こう強く感じた理由は別のポストで書く。ここでは結論だけにとどめておく。長い愚痴など書きたくないから。

その代わりに、少しここでは視点を変えて、英国の長所に目を向けたい。あの国には、いいところもあるからだ。そういったディフォルト文化のせいなのか、英国では「根本仏教」の教えが大変優れている。要は、この「根本仏教」とは、南アジア経由伝道の「お釈迦様直伝」仏教のことだ。この背景は、英国がスリランカを帝国下支配した時代に、本国から研究者をアジアに送り、どうすればアジア人をキリスト教徒に改宗できるかという戦略を練ろうとした。ところが、逆に研究者たちのほうが根本仏教の素晴らしさに感銘を受け、仏教に改宗してしまったという逸話。これは、実話であるらしく、英国で初めて仏教が伝道した場所は、あの名門ケンブリッジ大学の構内である。ここの、帝国時代の研究者たちが創立した「パーリ語・根本仏教研究会」が英国初の仏教団体だと言われている。

以前、英国で定期的にスリランカ系の仏教寺院に通っていたことがある。毎週行われれる座禅クラスで、寡黙で我慢強い英国人たちが、ただ黙って座っていたのが思い出される。10年以上も通っていたので、誰が「本気」で座禅をしていたのかは自然にわかった。ただ流行に踊らされて通っていた人たちは、ほとんど1・2年もすればいなくなったからだ。その時に、あの国の「システム設定」は日本と同様、「我慢」を強いられる社会だと心から思った。つまりは、有名な「イングリッシュ・ペイシェンス(我慢)」・・・。

1月に、ドイツに戻ってから、昔英国の寺院で入手した根本仏教の本を開いてみた。現在は、スコットランドとイングランド境のアルナ・ラタナギリ仏教僧院の修道院長であるアジャン・ムニンド大師(ニュージーランド出身、キース・モーガンとして出生)の素晴らしい言葉を見つけた。下手な日本語翻訳で申し訳ないが、下に翻訳(意訳)して記しておく。ここで抜粋したテーマは、「手放す」ことについてだ。

意訳 The Gift of Well-Being / Ajahn Munindo からの抜粋

『タイでの最初の師であるアジャン・ターテ大師との最初のインタビューで、意識の中で行われる活動と意識そのものの違いを理解することを学ぶことが私の課題であると言われた。 これだけだ。

この教えは、今でも私のすべての行動、プラクティスの意図の根底にある。 この、明確な指導はとても貴重だ。 この教えが私たちに与える示唆は、私たちが意識の中で常に「進行中の活動」をしており、その「意識上の活動自体」は、実は私たちの存在自体ではないということだ。 (正しくトレーニングを続けると)それらは、私たち自身ではなく、単に私たちの人生である意識の海を横切る自然の波なのだ、と客観的に観ることができるようになる。

そして、私たちは、(ほぼ反射的に)、自分の内面に生まれてくる「波」との「対立」を避けようとしていることに気づいていく。 そして、自分自身を「判断する心」さえも「ただ、そのままの自然のもの」とみることができる様になれる。 この絶え間ない「判断」や「裁き」は、まさに自然な心の活動なのだ、と・・・。 私たちは、自分自身の心の活動を判断し、裁くことに、賛成も反対もしないようになれる。 この意識により、自分が観ているものについて固執する傾向に気づいていき、私たちの心の中に常にある「裁き判断する心」さえ、裁かないように仕向けていく。これは、実に妙を得た教えである。

このような意識を保ち、賢明な熟考を持つことは、私たちの心に活力を与える。 今まで、ただ制限されて、条件付けられた存在としての私たちの誤ったアイデンティティを徐々に解消するのは、まさしくこの認識なのだ。 私は、常にマインドフルネスの実践に専念している。 実践により、その絶え間ない瞬間瞬時に心の中で起こっている「意識化の闘争」に気づいていく。さらにはその「闘争」を裁かないことをいつも心に留めることさえ出来れば、私たちは、心にわだかまっている執着を手放すための理解と感受性を得られるようになる。そして、私たちは自分自身の意識が高まっていることに気付くだろう。 常に自分を苦しめる「内面の癖」を手放すことができるようになるのだ。 それは私たちがすることではない。 むしろ、それは私たちの意識下の「無作業」によって条件付けられる。つまり、 私たちが、心の活動に関して賛成も反対もしないということ。これが、意識化の「無作業」、(「放っておく」)ということ。 そうすれば、自然に進むべき道は明確になってくる。

この、「無作業」によっての「非判断」を完全に理解し、習得するまで、瞑想者や、自分自身の心理療法士としての進歩はないだろう。 その学びがなければ、私たちの心の内部で、常に挑戦を仕掛けてくる葛藤(ジレンマ)の激しさを制御するための「内部スペース」を持つことはできないからだ。

このような「無作業」、「非判断」の心を習得すれば、自然と解決の場所、自発性、創造性、知性の場所を得られる。 これは、探しているものがすでに存在する場所でもある。 この次元に入るまで、私たちのすべての賢明な言葉は単なる模倣である』。

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