種からそだつ人。
2019年5月30日 晴れ。というか夜。ふと、バジルを育てようと思った。
昨年ポット苗を買って育てて、来年は種から育ててみようと思って枯れた花の房を折ってジップロックに入れておいたのを思い出した。
枯れた花をジップロックから出して、ティッシュのうえでバラして、種を外に取り出す。
これがけっこうめんどい。
一つ一つやってるとむずむずするから、こんどは掌(てのひら)でまとめて揉(も)んで、バラバラ死体のようになった中(写真左上みたいな状態)から種をみつけて拾い出すスタイルに変えた。
ところがまた、種をみつけるのが思いのほかたいへん。
「いろいろ試したけど、どっちみち…。なら、自分の好きなやりかたでいったらいいよね」
ってこと、あるよね。
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こんな風に、なにげない作業に夢中になっていると、いや、夢中になっているときこそ、
脈絡なく突如として、おもしろげなアイディアが降りてきて楽しくなっちゃったり、ぜんぜん関係なさそうなことが「そういえば」と結びつくことがよくある。
って『アイディアのつくり方』でジェームズ・ヤングも言ってたな。
バジルの種を取り出しながら、思った。
去年のポット苗は、種まきとか間引きとか、誰かがどこかまで進めてくれたやつなんだよな。
バジルを食うのが目的なら、そっちのがいいじゃん。苗だって150円くらいだし、芽がはえるかとか考えずに間違いなくすぐ食える。
鉢と土を買って育てるくらいなら、摘み取られたのをスーパーで買うほうがぜんぜん安い。
今じぶんがしてることは、非効率だよね。
でもそんな愛すべき非効率が、育つということなのかもな。
効率がよろこばれる、世界や社会のしくみ。
誰かと自分とできることをわけあって、トータルでいい感じになる世界。
その世界のしくみの中では種まきも間引きも"役に立たない"かもしれないけれど、しくみからちょっと外れた自分の世界で、非効率に自分で何かを育てて自分で(ずっと)まわせるようになる。
バジルみたいにぼくら自身も、最初は親やまわりの人たちがご飯をつくるとかお金をかせぐとかやってくれて育ててくれていた。
それが時間(年齢)とターンを重ねるうち、自分で自分の種をまこうってなって、自分で育って、時に枯れたりしながら芽を出して、葉を広げて、花を開いて、種を落として、土で眠って、また芽を出して。
そんな風に、種から育つんだよな。
周りの人からは非効率に見られることも、たまにはあるかもしんないけれど。
かくして、ぼくはバジルになった。
種を、まこう。育てよう。
太陽や雨や風みたいな、周りの人たちに感謝しながら。
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そしてもう一つ思ったことがある。
この作業は決してPCのうえでやってはいけないということだ。(うっすらとintelが見えるだろうか)
何かの拍子に手を引っ込めようとした、そのとき。
手がティッシュに触れて、バジルの種がティッシュペーパーのはしっこから次々に飛び出て、キーボードの中に潜り込んでいったよね。
鬼が「いーち、にーい、さーん、」と数えはじめたかくれんぼの始まりの、わっと一斉に隠れ場所をさがして走り出した子供みたいに…。
くっそめんどくせえ
その台詞を、そのときの感情をこめてもう少しだけリアルに文字で書く。
くっそめんどくせー苦笑
芽、出てくるといいな。
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