自我が除菌剤に溶けてしまって

熱いお風呂が苦手なんです。

厳密に言うと、熱いお風呂自体は好きなんです。源泉かけ流しの温泉とか、露天風呂とか最高ですよね。

でも、幼少期からのぼせやすくて、それが本当に極端で。

肩まで浸かって10秒もすれば閃輝暗点と目眩とがはじまり、目の前が真っ白になって、慌てて上がることになり、
温泉にみんなで行っていた場合なんぞは顰蹙を買います。
大抵、1人でロビーに出て牛乳を飲んだり撮影可能エリアで写真を撮ったり、最近ではスマホゲームをしたりして、小一時間待つことが多いです。

そんな訳で自宅でお風呂に入る時も「追い炊き機能」をつけていると熱くて熱くてすぐに上がらざるを得ないので、
健康および清潔のため長く入りたいですから、「追い炊き機能」はオフにして、だんだんぬるくなっていくお風呂になら長時間つかっていることができます。

あまりに疲れていたり読み物に熱中したりしていると、たまにそのままの姿勢で気づいたら3時間、4時間、経っていることがあります。
するともうお湯は冷めきっていて、特に冬場なんかは冷めるのも早くて、室温と同じくらいなのではないかと思う程に温度が下がっている訳です。

そんなとき、これはある一定層の人には「わかるー!」ちょっと古いと「それなー」「わかりみー」と共感いただけるのですが、
体温と変わらないお湯に浸かっていると、一体どこまでが自分で、どこからがお湯なのか段々わからなくなってきます。
境界が曖昧になっていって、自分の質量を見失ってしまうのです。

その後お風呂から上がる瞬間、重力と自分の体重と湯冷めの寒さとがいっきに襲ってきて、我に返ることとなります。

さて、何故今日はこの話をしようかと思い立ったかといいますと、
「コロナウイルス自粛」により、自分にこれと同じ現象が起こってきていることに気づいてしまったからです。

具体的には、どこまでが自分なのか、「自我」「自己主張」またそれに付随するあらゆるものが薄れて消えてしまいつつあって、
「〇〇をやりたい」等と思わなくなり、

ただただ周りだけを感じられます。
暑いなぁ、同僚のAさんは機嫌が悪そうだなぁ、宅配が来たなぁ、
そこには自分以外の人や物事だけが存在し、自分が存在していないことに気づいてしまったのです。

これを、人々は「なんとなくダラダラ過ごしている」と表現するのかもしれません。

自粛生活において、自意識が薄れてしまった原因は3つ考えられます。

(1)鏡を見ない、ルックスに気を遣わないこと

これは女性特有かもしれませんが、普段自分の顔や姿を客観的に見る機会は結構あります。
歯磨きする時、洗顔、化粧、着替え、髪のセット、出かけた先でお手洗い、メイク直し、ショウウィンドウに映り込む影、お風呂、自撮りの写真、SNSのアイコンなどなど・・・

しかし、外出もメイクもしないで部屋にいると、このうちの殆どが発生しなくなります。
自分という映像が脳内でだんだん薄くなって、わからなくなってきているかもしれません。
自分の目に映る外の世界しか見えていない、自分のことだけが見えていないのです。

(2)意思を持つことをあきらめた

「舞台に行きたい」「映画館に行きたい」「Bちゃんとお茶をしたい」「では仕事を17時までに片付けよう」等のハードスケジュールを刻々と調整しながら生きていました。それが私の意志であり、意思そのものでした。
意思を持っても意味がなくなってしまったので、最初は悲しみに暮れていましたが、無駄だな、と悟って、途中で諦めてしまいました。

(3)老化

良く言うと「トガっていたけど丸くなったな」っていうやつです。
私はこれを、仕事においては良い事だとは思っていません。

そんなこんなで「何も思っていない」自分に気づき、途端に空恐ろしくなって、
それなら存在する意味がなくなっているとまで思ったので、記録のためにこれを記します。

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