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数値化

食べ物が、数字や栄養素に見えなかったら、どうやら世界は違うらしい。これを読んでいる人は、何を言っているのか分からないかもしれないし、実はそうでもないのかもしれない。

例えば、目の前におにぎりがあれば、わたしにとってそれは180kcalの糖質45gであり、複合炭水化物であり、少量の食物繊維である。血糖値が上がるから単体では食べないし、できれば赤飯か玄米にして、ビタミンかタンパク質を一緒に摂る。

食事の前に、最近何を食べたか思い出す。長年の癖のせいで、この作業は無意識に行われる。カロリーと、摂るべき栄養素が勝手に割り出され、今日、自分の人体に何を摂らせるか決める。
血糖値を上げないように、疲労を回復させるように、そして、太らないように。いや、すべてはおそらく、太らないために。タンパク質、ビタミンBとE、ミネラル、マグネシウム。
味噌汁はカリウム、ココアやチョコはポリフェノール、卵やチキンはタンパク質、アーモンドはビタミンE、魚ならDHA。玉ねぎはアリシン、緑茶はカテキン。糖質は意識せずとも摂れるから、摂取は消極的。

美味しいかどうかは、たいした問題ではない。そもそも舌が肥えていないから食べ物であれば不味いと思うことなど殆どない。それよりも精神疲労の軽減に焦点が向く。太ることへの恐怖と不安、食べたという罪悪感は、とても疲れる。痩せていなければ、誰からも相手にされないという確信に近い、自分の信仰。それがどこまで正しいのかどうかは、もはや分からない。とにかく「太る不安なく食べられる」を最優先する。疲れないように。仕事の日は顕著だ。わたしにとって全ての食べ物は数字にしか見えていない。


朝はブラックコーヒー、お酒を飲むならハイボールか緑茶ハイ。勿論、糖質がないから。

もし、こうでなかったら?
ラーメンが、糖質と脂質の塊500kcalではなく、「美味しそう」に見えたら?
チョコレートや小麦粉を食べた後、脂質と単糖の摂取に後悔しなかったら?
人との食事に、罪悪感が付きまとわなかったら?

わたしは大人になった。その証拠に、「普通みたいな顔をして食べる」ことができる。まるで罪悪感など、1ミリたりとも、感じていないみたいに。
そして、隣で誰かと「一緒に食べる」行為に幸せを見い出すことに、憧れるようになった。それが生活の楽しみと思う人が多いことを、知識としてちゃんと知っている。

だけども、食べて思い出すのは、学童で同級生のお弁当を見つめた幼少期で、母の「太った?」で、足を細くしたくて必死に断食した14歳で、栄養失調でぶっ倒れた17歳なのである。太ったら誰にも愛されないどころか、仕事にも支障があると確信した社会人一年目。

世間的によくいう、「摂食障害」のようなものは寛解したように、周りからは見えるだろう。だってわたしはもう指吐きしないし、下剤も使わない。体重計にも乗らず、人前で、なんだって食べられるし「美味しい」と言う。さらに人体に疲労を溜めず、パワフルに働くには、バランスよく食べることが必要だとも知っている。

特異な行動を列挙するとしたら、せいぜいこそこそ食事記録をつけ、サプリでビタミンを摂取し、たまに鏡をまじまじと見つめながら筋トレやストレッチをする、それくらいである。それらはいずれも「普通」の範囲内の行動であるだろう。

だけどもわたしに食べ物が、「食べ物」に見えたことなど、この15年、一度たりともないのである。そして不運なことに、生命が続く限り食事の機会は毎日やってくる。意に反して感じる空腹。こうした計算詰めのわたしの、「摂取」は、複雑な気持ちは、目が覚めるたびにやってくる。人体管理のためのその作業は。

病名をつけるとか、治るとか、そういうことに足を踏み入れるのは、見方の一つではあると知っている。しかしわたしにはどうも着眼点がずれているように感じてならない。全ては同じこと。ただ、解らないのは、なぜそこまでして人体に執着して生きるのか、たったそれだけなのだから。

【余談】
「食欲」について書いた文章を上げた、というだけで本体、とても元気です。中島敦の「南陽通信」という日記を買いました。

時の流れが大変早く、もう給料日間近。給料日といえばブックオフオンライン。フーコーの「ピエール・リヴィエールの犯罪 - 狂気と理性」、春日武彦と穂村弘の最新の対談集、アルトーの「神の裁きと訣別するために」を購入予定。吉本隆明ももっと読んでみたい。

以上。


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