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人間は何を知ることができるか~カント『純粋理性批判』に学ぶ~

(1)はじめに

 科学の進歩により、私たちの知る世界はどんどん広がり、生活は豊かになりました。このまま進歩が続けば、いずれ神様のように、この世の全てを知ることができそうに思えてきます。
 しかし、人は神様と違って万能ではありません。能力の限界というものがあります。「人は何を知ることができるのか」というテーマは、「認識論」と呼ばれ、古代から哲学の大テーマでありました。
 本記事では、この認識論を代表する哲学書であるカントの『純粋理性批判』について解説し、「人は何を知りうるのか」という問いについて考察します。
 記事の執筆にあたり、哲学書の中でも、超難解といわれる本書ですが、できる限り分かりやすい解説に努めました。最後までお付き合いいただければ幸いです。

(2)カントの生涯

 カント(1724~1804)は、ドイツのケーニヒスベルクに生まれ、生涯、この街の外に出ることがありませんでした。
 非常に規則正しい生活で、毎日決まった時間に散歩していたのですが、街の住民は彼が散歩する姿を見て自分の時計の時刻を合わせていたため、彼が読書に夢中になり日課の散歩を忘れたときは騒ぎになったそうです。
 街から出ず、決まった習慣に縛られているところ、カタブツでつまらない人物にも思えますが、実際は知識豊富で、勤務先の大学では着任当初から人気講師、また沢山の人から食事会に招かれるほど話が面白い人物でした。
 小柄で華奢な体つきでしたが、規則正しい生活と強靭な精神力によるものなのか、80歳近くまで長生きし、最後に「よろしい」と言って、この世を去りました。

(3)時代背景

 当時の認識論の世界は、「イギリス経験論」と「大陸合理論」の2派に分かれていました。
 大まかにいえば、認識において経験と理性のどちらを重要視するかという点が異なり、イギリス経験論は経験を重視大陸合理論は理性を重視していました。
 イギリス経験論は、認識は経験によって得られるという考えです。例えば、電車の中吊り広告にタレントの顔写真が載っているとします。このタレントをTVやネット等で見たことがなければ、誰だか分からないはずです。単なる人としか認識できないでしょう。逆に何等かの方法でその人が何者であるか認識した後であれば、同じ広告を見ても「あの人は〇〇だ」と特定できます。
 また目の前に赤くて丸い物体があるとしましょう。手で持つと重みがあり、甘い香りがします。これを知らなければ何等かの果物であろうことは予想できるかもしれません。しかしこれを以前食べたことがある人であれば、これは「リンゴ」だとすぐさま理解できます。
 イギリス経験論は、経験したことが認識の基礎になると言っているわけですから、逆に言えば経験したことがないものは認識できません。また経験は主観的なものですから、客観的な事実は得られないというジレンマに陥ります。例えば、目の前にあるリンゴについて、あなたが見ているものと、そばにいる知人が見ているものでは姿形が異なるかもしれません。また科学の法則(因果律)は直に経験できないものですから、人間が認識できないものとなり、客観的な科学の法則は成立しなくなります
 ヒュームという哲学者は、因果律は経験できないものなので正しいか分からない。法則と呼ばれるものは人間が経験した現象から類推しているに過ぎないという理由で因果律を否定しました。つまり、「100回実験して同じ結果を得られたとしても、101回目も同じ結果を得られる保証はない」ということです。例えば、「卵を落とすと割れる」という現象は、過去に何回も同じ現象を目にしてきたから、「卵が固い床に当たり強い衝撃を受ける」という原因と「割れる」という結果を勝手に結び付けているに過ぎません。次からも同じことが起きるという保証は、誰もしてくれないのです。
 
 一方、大陸合理論は、人間に先天的に備わっている理性は真理を捉える能力を持っていると考えます。この考えに立てば物事を理詰めで考えれば、あらゆる客観的な真理を解明することができます。例えば「1+1=2」ということは共通して誰もが理解できることです。このような共通理解を積み上げることで、人は真理に到達できると考えます。
 しかし、「ただの頭で考えただけのことで、事実そうであるかの保証はない」と言われればそれまでです。

(4)人間の認識にかかる3つのステージ

 カントは『純粋理性批判』の中で、人間が対象を認識するときを3つのステージ(感性→悟性→理性)に分け、この2つの立場を融合させました。


❶感性(対象を五感で感じ取る能力)

 人は、まず「見る」「聞く」「触る」などの五感を通して対象を知覚します。五感を通して対象の情報を受け取る能力を「感性」といいます。このとき感じ取った対象は、まだもやもやしたカオス状態です。赤いリンゴであれば、「なんだか明るい」、「いい匂いがする」といったところでしょうか。
 五感を通して感じ取ることができる対象は、「時間」と「空間」という窓口を通すことができるものに限られます。逆に言うと、時間と空間の中にないものは、感じ取ることができません。例えば、神様や魂などがそうです。これらは、人間が知覚することができないものです。
 カントは、時間・空間の中にあり、五感を通して人間が知覚したものを「現象」と呼び、知覚できないもの(時間・空間の中にはない、あるいは人間の五感を通す前の対象そのもの)を「モノ自体」と呼びました。

❷悟性(「~は・・・である」と認識する能力)

 感性が受け取った情報を分類し、「これは何であるか」を判定する能力を「悟性」といいます。「赤くて、甘い匂いがして、手に持つと重みがある」などの情報から、「これはリンゴである」と判定する力です。「概念」を生み出す力といってもよいでしょう。
 悟性の働きは、誰もが共通して持つ「カテゴリー」に当てはめて判断します。このカテゴリーの中に、因果律も含まれます。そして、感性(直観)と悟性(概念)がセットで働くことで初めて「(経験的)認識」が成立します。つまり、経験は主観的であっても、それを概念として整理するカテゴリーは普遍的なものですから、カテゴリーに含まれている因果律もまた普遍性を持ち得るのです。
(補足:学問的意義のある認識とは)
 ここは少し専門的なので、読み飛ばしてもらっても構いません。
 「認識」には、先天的(アプリオリ)と経験的(アポステリオリ)なものがあります。
 また、「判断」とは主語と述語を結び付け、思考を定めることです。例えば、「リンゴ(主語)は赤い(述語)」や「馬(主語)が走っている(述語)」などです。前者のように、主語の中に述語の概念が含まれているもの(「赤い」という性質は「リンゴ」に当然に含まれる概念です)を「分析判断」といい、後者のように主語の中に述語の概念が含まれない(走るという概念は、馬に当然に含まれるものではない)ものを「総合判断」と呼びます。
 カントは、学問的に意義のある判断は「先天的総合判断」だとしました。なぜなら、まず学問として意味があるものは普遍的でなければいけませんから、先天的なものでなければなりません。また、分析判断は、「リンゴは赤い」、「ボールは丸い」など、述語は主語に含まれる概念しか言わず、主語に新しい価値をつけ足してはくれません。一方、総合判断は、主語に新しい概念をつけ足してくれるので、新たな発見がある。そういった性質があるからです。


❸理性(「世界は~である」と推論する能力)

 個々の認識を推論によって結び付け、体系的な世界観を生み出す能力です。この能力によって、「世界はこういうものだ」という高度な思考が可能になります。
 しかし、理性は推論を止めることができません。そのため、人間が認識できない「モノ自体」にまで手を出してしまうのです。
 理性は体系的な世界観を生み出す能力といいましたが、言い換えれば、真理を追究する能力です。この世の全てを知ろうとするこの力は、「唯一絶対の存在はあるか(神の存在)」「不滅の霊魂はあるか」「宇宙に始まりはあるか(有限か無限か)」、「(自然法則に囚われない)自由意志は存在するか」、「世界を構成する最小単位は存在するか」など真逆の結論が論理的に両立してしまう「二律背反」(アンチノミー)に陥るとカントは言いました。
 例えば「世界を構成する最小単位は存在するか」という問題を考えましょう。あらゆる物質は素粒子からできています。現時点で分かっている最小単位は素粒子ですが、今後、更に小さな単位が発見されないとも限りません。いくら小さな粒子でも無限に分割できることは想像に難くありません。つまり最小単位など存在せず、物質はいくらでも細かく分解できるといえます。
 しかし、物質を無限に分解でき、最小単位など存在しないのであれば、我々は一体何から構成されているというのでしょうか。形ある物質が存在する以上、それを構成する最小単位は存在すると言えます。
 なぜアンチノミーが起こるのか。それは理性に備わる2つの相反する性質が関わっています。それは「完全性」(有限性)と「追究」(無限性)です。つまり「世界とはこういうものである」と言うためには有限性が必要です(たとえば「世界は素粒子からできている」という答えは、世界の最小単位を素粒子と決めることで初めて語る事ができます)。一方、真理を追究するということは、既存の世界観を壊して、無限に思考を巡らせます。いわば世界観を構築するため破壊と創造を繰り返すのが理性の働きといってもよいでしょう。

(5)最後に

 人類が新たな発見を続け、どんどん進歩すれば、いつかは神の領域に到達しそうにも思えます。しかし、「人である」ということによる足かせからは、誰も逃れることはできないでしょう。普段から意識することはないでしょうが、人は物事をどのように認識しているのか、ということを振り返り、自分自身の思考回路を自覚できれば、己の限界を知ることができます。己の限界を知るというのは、消極的な考えにも思えますが、限界を知れば、できる範囲のことに力を注ぐことができるので、有意義な人生を送るためには重要なことだと思います。


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