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完成できるサイズを選んで描くことが継続の力なり

イラストレーターである友人のあやみちゃんにとてもいいことを教えてもらった。
上達の近道は、作品を完成させること

クリエイターの腕は作品が人の目に触れることで上がる。稀代の芸術家でない限り、わたしたちのような野良クリエイターは完成した作品を世に出し、感想をもらうことを繰り返して上達していく(※あやみちゃんはわたしのような野良クリエイターではなく、素敵な絵を描く作家さんです)。

まさしくその通りだと思った。さらには、どの大きさの絵を描くか決める時点で勝負が決まってるとこないか?と思った。

完成させられない病

かつてわたしは重大な悩みを抱えていた。それは、完成させられない病だ。いくら直しても気にいらない、むしろ手を加えれば加えるほど完成から遠のく、やがて何が作りたかったのかわからなくなってしまう。どうせ誰にも期待されていないんだからと未完成のまま放置してしまう…。1年間で完成した絵は数枚の習作のみ(完成品は無し)、文章は身内に出すレポートの類。noteはアカウントだけ作って1年間放置…。なにか作るにはもっと練習してから…。

これがかつての私だった。

いまでは違う。1日3カットのイラストをノルマに3か月、コトリドリルを完成させminneで100件売り上げ、2日に1回の更新をノルマに3か月でインスタグラムでフォロワー1000人を達成した。

まるでダイエット広告ビフォー・アフターの宣伝文句のようだな(笑)

ちなみにいまは、noteで週1回、音声コンテンツの配信をがんばっている。
ことばの発達ラジオマガジンのフォロワーさん募集中です(営業)。

完成できるサイズの絵を描く

こうした継続のすべては、「完成できるサイズを選んで描く」ことによってできるようになった。
継続は力なりと言うが、前後関係があべこべである。「完成できるサイズを選ぶことが継続の力なり」、なのだ。ここまで読みよくわかったという人には、後半は蛇足だろうが、必要な人のために書いておく。

「上手な絵を描く」ではなく「15分で1カット完成させる」

まず、わたしはプロの絵描きではないので腕はそんなに達者ではない。
素人が「上手な絵を描く」を目標に掲げるとどうなる?そう。習作と未完の作品を大量に生み出す羽目になる。

そこで用意したのがストップウォッチ。トヨタ式よろしく、15分で1カット、容赦なく時間をぶった切った。自分が自分のスパルタ上司だ。そうして出来上がった絵がこちら。

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なんとこれしか描けなかった。はは。
しかし、どれだけ稚拙な絵であろうと、15分かけて描いたこのカットをわたしは描く前から教材に使うと決めていた。失敗しても上手く描けても容赦なく使う。コトリドリル専属イラストレーターのわたしと、コトリドリル現場監督のわたしは別々のジャッジメントを下さなければならない。

そうして、毎日3カット45分、イラスト修行兼コトリドリル制作を継続して1か月後はこちら。

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超上手い!とはならなかったが、用は足すようになった。そう、それで充分なのだ。わたしが必要だったのは、後世に残る名画ではなく、pixivのいいね数でもなく、4歳の子どもが楽しく言語訓練に向かえるための「それがなんであるかが判別できるカットイラスト」だ。その意味で、充分に用を足す。1か月経つころには、完成品のストックが3カット×31日、100点近く蓄積していた。

ちなみに、これらのカットを描くにあたって練習を一切していないし、下描きもしていない。じかにパスをいじって絵をつくる(たぶん絵を描く人にはわかると思うが、とても単純な構造なのだ)。

外からの強制的な力で完成させる

そういえば、この方法で継続してこれたものがわたしにはふたつある。

ひとつは料理だ。好む好まざるにかかわらず、料理はかならず締め切りがやってくる。生活のための調理に2時間も3時間もかけてしまったら、文字通り日が暮れてしまう。よく考えると、家庭料理の献立本ははじめからそうした設計になっている。8時間煮込むブイヨンや鶏ガラなどがいきなり登場したりはしない。5時半から調理を開始し6時半には食卓に着けるよう設計されているのだ!当たり前だろうか?いやいや、プロが綿密に計算した参考書だからこそだ。

自分が完成させられる絵のサイズを強制的に選ばされてきたからこそ、わたしは料理を5年間続けてこれた。結果、それなりに上達した(夫と2人、食卓で日々の栄養を欠かさず取れる程度には)。継続は力なり、改め、完成できるサイズを選ぶことが継続の力なり

もうひとつは、本職であるセラピストとしての業務だ。セラピーは毎日かならず本番が来る。準備が不十分でも、用意した計画が的をハズしても、なんとかその場をまとめねばならない。時間のまとまりがあり、それの繰り返しがあり、ずらしながら変化を起こす。適度な負荷のかかるそうした枠組みの繰り返しが、わたしを一人前の言語聴覚士にしてくれたのだ。いまでもその枠組みがわたしを外側から支えてくれている。

完成品をコンスタントに生み出すことができるように

それに気がついたわたしは、現在、この仕組みをさまざまなところに応用している。まずインスタグラム。

ことばの発達やスピーチ・セラピーにかんする視覚資料を作成しアップしている。まず更新頻度を決めた(5月までは毎日、5月からは隔日で更新している)。そして、自分の現在の能力で行える(注意:未来の能力や目標とする能力で見積もってはいけない)、かつ、その更新頻度で出せるクオリティを突き止めた。あとは、カゴのなかで車を回すハムスターのように、その輪のなかで繰り返し試行錯誤をしていくだけだ。

我ながらそれなりに上手くなった。とにかく、習作が本番を兼ねる形は成果物を出せてノウハウも蓄積するのでおトクだ。

鬼門は文章

鬼門は文章である。わたしは昔から、テキストを書くととにかく長くなってしまう癖があり、いっこうに完成しない。いま現在、noteアカウントにも未完成の5000〜7000字の原稿が大量に眠っている。かけた時間を時給換算したら…。はー…めちゃもったいない😩

さすがに、文章をコンスタントに出せないと今後の活動に差し障りが出る…と思い、修行を再開した。今回は、文字数を2,000字に制限することにした。文章は5000字を超えたあたりから自分のなかのワーキングメモリに限界が来て、全体の整合性が取れなくなってくる(当社比)。2000字くらいでさっくり出してしまったほうが生産は安定する。

おっと、もう2500字。それではこれにて。


まとめ👇

・完成できるサイズを選ぶことが継続の力なり
・下手でもイマイチでもとにかくそれが完成品。それを使う
・更新頻度or締め切りを先に決め、その頻度で出せるものをつくる
・下書きや習作は必要最低限に、とにかく完成品を出す
・練習が本番を兼ねる形が最も成長サイクルが回り仕事が捗る
・上手くなってからやる・知識を付けてからはじめるだといつまで経ってもなにもはじまらない


<補足>
自論だが、完成品を世に出すからと言って、真っ向から周囲の批判や批評を受けなければいけないかといえば、それは違う。
初期の拙い作品にボロボロのダメ出しを喰らわないと成長できないのだろうか。そんなわけはない。
そういうのは部活動などに任せておけばよい(部活動もどうかと思うことがあるが)。

これは長くなりそうなので、またいずれ別の機会に。

いただいたサポートは、ことばの相談室ことりの教材・教具の購入に充てさせていただきます。