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誤って刺さる

守破離ということばがある。
茶道や柔道の経験はなく、本家の作法を通じてその精神に浸かったことはないのだが、なにか技能や技術を学ぶときにコレを意識している。

守:まずは徹底的に順守。なにも考えずひたすらコピーする
破:技術を発展的に拡張・応用する
離:独自性を生み出す

"守"の部分

たとえば料理。

自炊を始めたのは22歳の頃で、4年くらいはずっとレシピを見て料理をしていた。家庭料理の本を何冊か厳選し、レシピを暗記するまで繰り返し作り、一言一句読み込んだ。時間が取れる休日には、知らないことばを調べてその意味を書き込んだり、複数のレシピを比較して、どうしてこの手続きが必要なんだろうと考えたりもした。

食材の調理とは、人間が長い歴史の中で培ってきた営みのひとつだ。つまり、多くの人が通ってきた”道"が存在する。初心者はそれを辿っていけばよい。

余談だが、コツはインプットに良質で目的に沿ったものを選ぶことだ。
自分の場合、レストランで作るような料理がたくさん載っているような本は避けた。それらはとても魅力的だったが、わたしが習得したいのは無理なくて、毎日の栄養を得て健康を維持するための家庭料理だったからだ。

また、インターネットでのレシピ検索もほぼしなかった。玉石混合のネット上から当たりを引くのは、初心者には難易度が高い。とくに、料理は非言語性スキルなので、手順をテキストに起こす際に「異モダリティ間の翻訳」が必要になる(ただし、動画はそのへんの問題が解決しているのでオススメ)。たいてい、書籍は複数人のプロの目や手による編纂を経て出版されるので情報の質がよい。多少お金はかかるが、本から学んだほうが結果として遠回りが少ない。

良質なインプットをただ繰り返す段階

道を極めるには、"守"の段階で欲をかかず、無心に手を動かし続けることが大切だ。現代では情報流通が発展し、先人が苦労して手に入れた最高品質の知の集積に、驚くほど簡単に・かつ費用を抑えてアクセスできる。にもかかわらず、「時短」や「効率」、「魅せ方」という言葉にフラッときて、くしゅくしゅっとまるめた加工品を借りることでやり繰りしていこうとする人がいる。実は、多くの人がそこで脱落していくので、鍛錬としての基礎固めを淡々と繰り返すだけで、多くのライバルを出し抜くことができる。


これを一般的な表現で表すと、「コツコツ努力」とか「勉強が大切」とか、当たり前のことになる。自分の技能がわずかずつ変化していくさまを楽しみ、報酬回路を作るちからとも言えるかもしれない。


"破"の部分

4年繰り返すと、家庭料理の和・洋・中、基本的なところがわかった。そこで、①レシピを見ないで作れる、②おもてなしの料理を作る、の段階に歩をすすめることにした。守破離でいう"破"である。ここまで、"映え"料理に一切手をつけず、手抜きや時短レシピの誘惑に耳を貸さず、淡々と栄養摂取と日々の満足を第一に考えてきたのだが、4年目にしてそれを解禁した。

①について参考にしたのは一汁一菜の土井義晴先生や、<レシピを見ないで〜>シリーズの有本葉子先生だ。とくに、土井先生の『一汁一菜でよいという提案』のおかげで、ほぼレシピを参照することなく献立を立てられるようになった。食材の旬を意識するようになったのもこの頃だ。②については、料理教室に通うようになった。そして、食卓に並べるうつわに凝るようになった。かくして食器沼にずぶずぶ(笑)。

主題に戻ろう。このように、家庭料理については、守破離のうち、守と破まで歩んできたつもりでいる。道は長く奥が深いもので、未だ"離"には至っていない。アマチュアとしてぼちぼちやろうと思っている。

"破れない"人

ところで、コツコツ努力ができない人の存在もわかるししょうがないのだが、それとは別で気になっていることがある。中堅やベテランなのに"守"の段階に留まり続けてしまう人の存在だ。
"守"、「言われたことを順守し、その通りにすること」にエネルギーを注ぎ続けていると、破るべき適切なタイミングが訪れたとき、今度はそれが怖くなってしまう。壁となるのは、周りからの視線だったりそれを内面化した自分の価値観だったりする。さらには、同じことを繰り返し続けたほうがラクという慣性の力だ。

周りと同じようにしたい

集団には、同調圧力という力がはたらく。集団内の基準に沿うよう自らのふるまいを調整するのは、ソーシャルスキルのひとつだ。しかし、なんらかの専門技能を有する職能集団などの場合、「周りと同じようにやる」ことが至上となってしまうと、おかしな方向(重箱の隅を突くような些細なことに拘泥したり、知識でのマウント合戦が起こったり、新人をやたらいじめたり…etc)にすすむ力として、それがはたらいてしまうことがある。

同じことを繰り返し続けた方がラクという慣性の力

最近さまざまなインターネットを改めて見回してみると、"業界あるある"を投稿する文化圏がある。医療だったりアパレルだったり飲食だったりさまざまあるが、どれもリツイートやいいねをしているのはほとんどが業界内部の人間だ。楽しんでいる分にはべつにいいのだが、ときには、「外向けに自分たちの業界のことを発信しているつもりが、それを楽しんでいるのはほとんどが身内の人間だった」という現象も散見される。

すでに知っている知識や過去に習った範囲を繰り返し周遊することが「勉強する」なのであれば、認知負荷的にはひじょうにラクで、それでいて勉強しているという自尊心を満たすことができる。だがしかし、ことばが悪くて恐縮なのだが、勉強だと思ったら自慰行為だったということがないだろうか。あるいは、新しいことを学んでいるつもりが、あれみたいな。ハムスターがお部屋にある回し車をただひたすら回していただけだった、とか。
嫌味ったらしく書いてしまったが、自戒をこめねばならない。

誤って刺さる

ずいぶんと蛇行しながらすすめたが、伝えたかったことはつまり。

「勉強しなさい」、「努力しなさい」といったたぐいの助言が、それを必要な人に正しく刺さることはひじょうに稀だ。"守"のステージをスタートできない人(努力がニガテな人)には退屈なお小言にしか聞こえないし、"破"の段階に移れない人には自己刺激による快感を強化する結果となってしまう。

その一方で、「周りの目を気にするな」、「自分の頭で考えて行動なさい」という助言だが、これもまたあべこべに刺さってしまいがちだ。基礎ができていない人が発揮するオリジナリティほど不格好なものはないが、そうした人たちに限ってこの種の助言を好む。わたしが言うまでもなく、「下手の考え休むに似たり」ということわざがある。

それなりに賢く、真面目な人に限って「周りと同じことをする」ことに重きを置きがちで、それは一定のレベルに到達するまでは正解の最短ルートなのだが、プロフェッショナルとしてはそこから先には"破"と"離"があることを忘れないでいたい。
たとえばニッチな専門領域で従事者が少なく、その先のルートが開拓されていない場合には、周りと同じことをやっていくとどこかで行き止まりになってしまう。

せっかく賢い人たちが集まっているのにもったいないなと感じることが多いのでした。長かったな!おしまい。

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