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短編小説『春のことの葉』

かなり昔の大学時代に、創作小説のHPをしていたのですが、卒業後にいろいろありすぎて自然消滅していました。もうどこを探しても載っていないし、せっかくなので私が気になったものを、新しい小説と並べて少しずつ載せてみようかなと。

今日はその一作目。
「春のことの葉」です。

『春のことの葉』


めぐる春に想いを寄せて。

「誰のために花は咲くのではない」

家庭教師として富豪の家に呼ばれた青年が、詩集を片手に少女に読み聞かせている。
少女は表情もなく、頷くこともなく、聞いている。

―――聞いている。

それは家庭教師にもわかっていた。だから彼は続けた。

「花咲く春は、その訪れを願う者の胸に降りる。願う者にしか、春の訪れは、本当の春の訪れは、感じえない。花が咲くことに、鳥が歌うことに、意味はない。「春」という言葉は、言葉でしかない。けれど願うなら、春は、春として、その者の胸に降りる。胸に、心に、身体に、世界に…刻まれる」

わかるかな、と、青年は少女に笑いかけた。
少女は長い睫を伏せたまま、何も答えない。

紅色の花の咲き乱れる、二人の憩う庭園にはたえず鳥がさえずっている。
春だ。
風も淡い色の空もやわらかな緑も、春めいている。
少女の青白い頬だけが、死を思わせる冬の色をしていた。
彼女の心には、春は届いていない。
青年は家庭教師としてではなく、一人の青年として、少女を気の毒に思っていた。

少女は声を持たない。
幼い頃、貴族である祖父に咽喉を掻っ切られた。

貴族の血統の父が、異国から来て雇われた召使を見初めて孕ませた娘。
祖父の息子に対する、少女の父に対する期待は並外れていた。その期待を裏切った息子を、それでも愛情故に憎めなかった祖父は、かわりに少女をこの上なく憎んだ。
少女への憎しみの証として、その声を奪ったのだ。

本来なら、少女は屋敷でぬくぬくと育てられる環境にいられる子供ではなかった。
けれど父は母のほかに妻を持たず、娘のほかに子供を作らなかった。
その両親は、数年前に旅の途中馬車で事故に遭い死んでしまった。

少女に憎しみを抱く祖父は、重い病で床に伏せている。

屋敷を継ぐのは、少女ということになった。

玉の輿を狙って、言い寄ってくる輩もいた。
けれど彼等は、そのうち気味悪がって少女の元を去っていった。
少女はまるで陰気な人形だった。

人の言われるがままに動いて、笑うことも、伏目がちな目を開いて何かを伝えようとすることもない。
意志を持たない。
言葉も持たない。
ただ、そこにいるだけで気味が悪い。誰もがそう思った。

少女は、彼女の家に長年勤めている教育係たちの手によって、ある日社交界に送られた。
初々しい薄水色のドレスに、白い肌。長く黒い艶めいた絹の手触りの髪。
伏せられた青い瞳は、何も見ていない。
珍しい美しい人形の前に人の群れができた。

家庭教師をしている青年は、そこで初めて少女と会った。

人々は彼女を前にして、口々に言った。
人間でも心を失って人形になってしまうことがあるのだ、彼女はその美しい見本だと。
美しいと誉めそやしながら、その心は空虚で、自分たちとは別のものだと言った。
心を失ってしまった少女は、人形の生活から人間の生活に戻ることはないだろうと、彼等は推測したのだった。

青年は一人、ただ一人、思った。
そんなことはない。
彼女は声を失っているだけで、心まで失ってはいないはずだ。
だいたい、人々の口の端にのぼるその「心」というものが、どんなものか、説明できる者はこの中にいるだろうか。
自分にさえそれは、できないというのに。

「彼女が聞いています。それ以上、彼女を悪く言うのはやめてください」
青年は言った。
「言葉が人間を作っているのではない。彼女は言葉を失っているだけだ。彼女がいつか願うなら、それさえ、取り戻す日も来るでしょう」

青年の言葉を聞いた少女は、密やかに、一筋の涙をこぼした。
少女が言葉を取り戻すために、すべてを捧げようと青年の決意するのに、それで十分だった。

「君と同じ歳の頃、そう、ちょうど今と同じ春の頃、私は父を殺されてね」
青年は詩集をテーブルの上に置いて、ため息をついた。

「悲しみより憎しみが、私たち残された一家をのみこんだ。兄と私は、仇を討つために送り出された。私はその旅の途中で、たくさんの物を目にしたよ。人の憎愛。貧困。病苦。繰り返される悲しみの系図たち。けっきょく、兄と私は父の仇を討った。兄はそのとき致命傷を負って死んでしまった。兄は私に、彼等の家を滅ぼせと言った。憎しみの黒く底のない恐ろしい闇の渦が私には見えた。見えたんだ。私は兄に頷くことはできなかった。怖かった。あの闇は、兄そのものでは、ないように思えた。それから、考えるようになったんだ。人は、自分で動いているつもりでいて、実は何かに動かされているのかもしれないと」

テーブルの上の詩集が、春風で数枚めくれた。少女の黒い髪が、頭上の若緑の葉と共にそよいだ。

「私は、その「何か」は、はじめ言葉だと思った。人は人に対して発する言葉で世界を把握し、動かしているのではないかと。でもそれは、君に会って違うと悟った。言葉では―――ただの音、ただの記号の言葉では、人は動かないね。本能とも言えるどこか胸の奥の場所で、それは虚しいと知っているんだろう。人から人へ、それを伝えようと心から願い、それを受け取りたいと願うものにしか、与えられない特別の言葉があるのを私は知っている。それはもはや、言葉ではなくて、もっと、根源的な何かだ」

青年は少し顔を赤らめた。

「人によってはそれを愛情と呼んだり、真実と呼んだりしている。けれど、愛情は利己的にもなり、真実は「誰かにとっての」というカッコつきであったりする。だから、たぶん言葉で決めることは、できないのではないかと思うんだ。言葉はむなしい。そう言ったらね、この世のほとんどの物は、虚しい、報われない。そんなことはないのだと、言える人間は幸せで、まだ世界の片面しか見えていないんだと思うよ。幸せなのは結構なことだけどね、私は、そういう人間は疑ってかかる。なぜって、誰かの救われ難い、根深い部分の苦しみさえも理解できないということだから。それでもいつか、必ず、見せつけられるんだ。報われない世界を。誰だって」

青年は兄の死を思った。
彼の血が床に流れ、苦痛と憎しみに歪んだのを思った。
自分の分身とも呼べるくらい、親しく愛しく近しい兄だった。
高潔で、憐れみを知り、
賢くて機敏だった。彼が傷を負ったのも、弟に傷を負わせないために進んで前に出たからだ。
傷を負って死んでいたのは、自分のほうかもしれない、と、青年は時時考える。
兄は旅の途中でたくさんの人に施しをし、救い、感謝をうけた。
その兄さえも、憎しみと苦渋に満ちた死を向かえた。
人にとっての救いとは、どんなものだろう。
いかなるものだろう。
世界への疑いの眼差しと、孤独が、青年を襲った。
青年は書物によらず、神の教えにもよらず、自分で考えるようになった。
それはひどく困難な道のりだった。
他人には到底、理解されにくいことだった。
青年はひとり、世界を認識する際の言葉が、人々の間で共有されているものだと知り、そこから「言葉」の意味がはみ出すと、とたんに理解されなくなるものと知った。

言葉とはなんだろう。
考えるうちに、言葉で表現されている世界が、言葉という物の持つ制約によって構成されていて、実はひどく、不完全であるのではないかと疑いだした。

言葉を失っている少女のほうが、多くの言葉を知り、語り、人を動かし自分も動いているような人々より、制約から自由で、多くの物を知り得るのではないか。
今、青年の胸を占めているのは、そんなことだった。

「君は聞いている。いつも、いつも、世界の音を聞いている。私の話しも聞いている」

微動だにせず。
少女は動かず、時が止まっているかのよう。
けれど聞いている。
聞いている、と、もしかしたら、思いこんでいるのかもしれないと、青年はたまにふと思う。
それでもよかった。
思いこみでも、構わなかった。

「私の君にする話は、君のため話しだ。他の誰のものでない。君にあげるための言葉だ。けれど君が拒むなら、意味のなさないただの音。君が望むなら、君のためだけの言葉。言葉じゃない、さっき言った、その奥にあるものを君が汲みとってくれるなら、私はもっと嬉しいんだが」

青年は一人赤くなり、風にめくられるままになっていた詩集をパタンと閉じた。

「さあ、そろそろ学習に戻ろうか。私が君に文字を書くことを教えるのは、いつか君が伝えたい何かを胸の奥に感じたとき、誰かにそれを伝えることができるように、その方法を身につけていると、君のためになるかと思うからだ。私はそれを、兄から教わった。兄から教わったから、君に教えたいと思うのかもしれない。何度も言うけれど「言葉」は不完全だ。それを補うのは君自身。…いつか、君の言葉で、語り出す日がくるのではないかと、私は勝手に想像しているんだ」

少女の手を優しくとって、青年はゆっくりと青い空と若木を仰ぎ、少女に視線を戻して微笑んだ。

「私は、誰かにして欲しくて、誰もしてくれなかったことを、君にしてあげたいと、思っている。誰も私に教えてくれなくて、私が教えて欲しいと思っていたことを、君に教えてあげたいと思っている。つまり、そういうことなんだ。望むものが手に入り得ない人間にとって、望みが尽きず満たされない人間にとって、誰かに何かをしてもらうことでなくて、誰かに何かを与えることが、伝えていくことが、唯一の救いなのかもしれない。私は最近、君と向き合いながらそう考えている」

青年は少女に毎日、根気強く、文字を教えた。
「木」という文字を教えるときは、まるではじめて木を見て、それに名前をつけるかのような気持ちで、青年は教えた。
青年が少女に木という言葉を教えて、はじめてそれが二人の間で「木」になった。
それは二人にとっての木であって、たとえば青年が木ではなく他の言葉をそれに与えていたら、二人にとっては他の何にでもなり得た。

そうして根気強く、青年は世界に言葉を、少女に世界を与えた。

「いつの日にかきっと」

青年は言った。いつも、少女を見ると微笑んでいた。
自然な微笑だった。
そうせずには、いられないという微笑。

「君は春を知る。心から。私にはなぜかわかるんだ。君の世界は今凍てつく冬で、氷つき、閉ざされている。いつか君が、春だと思ったときには、その氷は溶けて豊かな流れとなって、大地を潤し花を咲かせているんだろう」

やがて時は流れ、二人の住む国は大きな戦いの渦に呑みこまれた。
青年は戦士として召還され、家庭教師としての仕事を続けることができなくなった。

一人残された少女のもとに祖父の訃報が入った。
少女は口がきけないという困難を持ちながらも、生きぬくために、家と自分を守らなければならなくなった。
そのとき、少女はもはや、人形ではなかった。
文字を使い、人に物事を訴えることができたし、話さなくても表情や手振りで、強い瞳で、多くのことを他人に伝えることができた。
青年が教えてくれた「世界」が、ひとり孤立した少女を助けた。
言葉を持った少女は強かった。
彼女の持つ言葉は、青年の言葉であり、少女自身の言葉であり、世界であり、それを伝えるための声のない声だった。

季節が巡って、少女は春だと感じた。
木々が色づき、風が穏やかで、雪解け水が川を豊かに流れている。
少女はその色づく世界に、「春」と名づけた。青年が教えてくれた言葉で名づけた。

今なら胸の奥にある想いに言葉を与えてあの人に、伝えることもできるのに。少女は祈るような気持ちで胸がいっぱいだった。

何にかえても表しきれないようなたくさんの感謝と、また、あの笑顔に会いたいということ。
会いたい。会って伝えたい。
胸にうかぶ想いを。
彼のくれた言葉で。

木々の上で鳥がさえずっている。
この春が、この想いが、彼に届きますように。
少女は願った。

「花咲く春は、その訪れを願う者の胸に降りる」

少女は青年のくれた言葉を、胸の中で繰り返した。

春は巡る。
その言葉は、少女の中の淡い希望となって輝き続けた。

―――――おわり

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