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落語で考える 文系か?理系か? ⇑くだらないエッセイ⇑

 今回はこの、いろんなところで、あーだこーだ、と論争される「文系か? 理系か?」問題について、古典落語の『三方一両損』という演目を題材に考えてみようと思う。簡単にこの噺のあらすじを書いておこう。

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◆古典落語『三方一両損』◆ 
 江戸っ子で大工の吉五郎が、金三両と書付を入れた財布をどこかで落としてしまった。落とした金のことは忘れて、逆にさっぱりしたいい気分で酒を飲んでいたところへ、左官の金太郎が現れる。金三両が入った財布を拾い、書付で持ち主が吉五郎だと分かったので親切に届けてくれたのだ。ところが吉五郎は、
「俺に愛想を尽かして懐から出ていった金とは、こっちから縁切りだ。金三両は拾ったてめえにくれてやる!」
とほざいた。金太郎も江戸っ子なので、
「持ち主が分かった金を受け取れるわけがねえ。そもそも届けてもらった相手にその態度は何だ!」
と、たちまち大喧嘩。かくして名奉行大岡越前の裁きに委ねることになる。
 越前は、
「江戸っ子両名の潔い心、どちらの言い分にも一理ある。よって両名に褒美をとらせよう」
と言い、財布の三両に自分の懐から一両を足して四両とし、吉五郎と金太郎に二両づつ渡す。吉五郎は三両落として二両だけが返ってきた。金太郎は三両拾って二両だけを受け取った。越前は自分の懐から一両を出したので「三方一両損」。これにて一件落着。

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 とまあ、こんな噺なのだが。
 そもそも、吉五郎は落とした財布をなぜ探さなかったのか。普通に考えれば、三両という大金を落とせば探しに行くはず。なのに、しなかった。そんな野暮なことはしないのが「宵越しの金は持たない」江戸っ子の美学だから。
 一方の金太郎はなぜ財布を届けたのか。拾った三両を自分の懐にしまってとんずらすることもできたわけだ。なのに、届けた。そうすることが江戸っ子として、人として「あたりめえ」のことだから。

 ストーリー設定もまた巧みだ。
 財布を届けてくれた金太郎に対し、本来なら吉五郎が「わざわざ届けてくれてありがとうよ」と礼を言う。「落とした金のことはあきらめていたが、こんなふうに戻ってきたし、それに、おめえといういいやつにも出会えた。さあさ、まあ一杯やってくれ」。かくして両名は盃をかわし、兄弟の契りを結ぶこととなった。めでたしめでたし。という展開もあったわけだ。なのに、金太郎が財布を届けたことが「事件の発端」になった。その方がストーリーとして、ややこしくて面白いから。

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 当たり前の展開、つまり、誰がやっても同じになる展開を「理系的ストーリー」と呼んでみる。たとえば、手に持ったペットボトルを離すと、ペットボトルが落ちる。これは誰がやっても同じ展開になる。
 一方、「どうしてそうなる?」という展開を「文系的ストーリー」と呼んでみる。たとえば、手に持ったペットボトルを離すと、自分が落ちる。これが「どうしてそうなる?」の例。
 「理系的ストーリー」には再現性があり、「文系的ストーリー」には再現性が無い。どちらが良いとか悪いということではない。言いたいのは、理系はサイエンスであり、文系はサイエンスではないということだ。
 『三方一両損』の吉五郎と金太郎の行動には再現性が無い。この再現性の無さが、このストーリーの肝だ。

 物書きとしていろいろ試してみると、私の場合は「文系的ストーリー」の方が、ややこしくなって面白いストーリーになることに気付いた…。
 というような、くだらないことを考えながらニヤニヤし、夜更けまで酒を飲むのが私の密かな楽しみである。


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