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『正欲』

Netflixにて朝井リョウ原作の映画「正欲」が配信されていた。
つい最近上映されてたよなと思いつつ、ちょうど1週間前ほど友人が映画を見た感想を話してくれたというのも相まり見てみた。

第一の感想として、原作を読んでみないと朝井リョウのメッセージをちゃんとくみ取れないだろうなと。
映画で原作をちゃんと描写できているのか否かということを判断できない状態でこの作品のメッセージを勝手に考察していくのは個人的に嫌だなと思ったのだ。
あくまで個人的にだ。
それは「正欲」という作品が取り扱っているテーマ故のこと。

とんでもなく平たく言うと(失礼極まりないのは承知)、
映画内でも描写されているが、Fetishismに対する社会の偏見や空気を感じ取りながらも自身の生とどう向き合っているのかというのを扱っている。
このFetishismというのは簡易的にWikipediaにて調べたところ、もともとは呪術崇拝を指していたのが、
実証主義として知られているオーギュスト・コントらなどが崇拝構造を性的嗜好障害と絡めて論述したところから、”性欲”と絡まった語用をされたそう。

テーマが故に原作を読んでから考察したいとは思いつつもそれは時間がかかるし、
せっかく映画を見終わったフレッシュな状態でこの文章を書いているのであれば、
映画しかみていない状態という条件付き(≒対アンチ保険)で少し感想を展開してみようと思った。
映画の内容自体を暴露するつもりは毛頭ない。むしろこの映画を見てどこの馬の骨だかわからない一般男性が感想を垂れ流すという需要のない、現行の経済モデルとは一線を画した文章となっていることを忘れずにいてほしい。


嗜好の複雑さ

Fetishism
俗に使われている「フェチ」の出発点となっている概念だ。

「わたし○○フェチでさ~」
「え!俺も△△フェチ!」
このような構文が確かに存在している。しかしこの映画でスポットライトがあたっている登場人物たちが描いているのは誰かに共感を求めるようなものではなく、うしろめたさ。
社会や自分の属するコミュニティ内で口に出したら矢面に出され消費されてしまうのではないかという畏怖。
自分自身の根幹の嗜好であるがゆえに他人に消費されてしまうと死んでしまう。
いや、嗜好というより、「元々”そうであった”志向性」という方が近いのか。
なんとも言葉にしづらい感情や感覚を惹起する志向性。
だからこそ他人に語ることが難しく、うまく共有できない。
加えて自分の”それ”が他人や社会が一般的に語用しているものとはズレがあることを認識してしまう。
それらが相まって、変えられない根幹的なものだからこそ苦しむ。

SNSやNetflix様なプラットフォームを駆使して1日の暇つぶしをしている我々現代人はそこまでバカじゃないはずだから共有できると思うのだが、
嗜好というのは均されたものではなく、ものすごく質的なものである。
金曜ロードショーを友人やパートナーと一緒に鑑賞しても出てくる感想は違ってくるだろう。なんなら一緒に鑑賞すらできないなんてこともざらにある。
パクチーをパクパク食べる人もこの世の中にはいる。
ここまでは感覚的に理解するのは容易いと思われる。

しかし、性的指向という視点で考えたらあなたはどうだろうか。
この映画でも描写されていた、小児性愛・LGBTQ。
今作品の主人公たちは水。
それ以外の対象に性的に向き合っている人もいるのは想像できる。
今作品はそんなマイノリティな性的指向を抱えた人たちを描写している。
そのため物語として彼らの苦悩や葛藤などを観客である我々は知ることができる。
そういう点ではこのような作品がパブリックに広まるのはとてもいい機会なんだと思う。マジョリティーにとっては。

しかし。
ソースは忘れたが、是枝裕和監督の「怪物」という作品内の描写&是枝監督のインタビューなどから当事者性の問題意識に関する議論等があるように。
マイノリティの苦悩や葛藤に対する共感という消費体型という見方もできてしまう。
(まぁマジョリティvs.マイノリティという二項対立で論じるということ自体の暴力性はある。本記事内ではあえてそういう表現をしているが、筆者自身としてはこのあたりにも問題意識はあることを承知していただきたい。)

現行の法律システムにおいては、小児性愛は精神障害とされているかつ、犯罪行為として弾劾される。
LGBTQに関しては偏見払拭のための前向きな議論がされている一方で。

社会的な制約vs.個人の”純粋”な嗜好 という構造は本作品(映画しかみれていないが)の中で描き切りたいテーマであるため、3つ目の見出しにて考えてみようと思う。

とにかくちょこっと考えてみるだけで、「その人の好きなもの」がいかにわかりにくくてややこしいのかというのが理解できるのではないだろうか。
映画内で稲垣吾郎演じる、寺井啓喜の一挙手一投足が気になりだしたように、この映画を見た際に「普通ってなんだよ。」と思わざるを得なくなるだろう。
しかし僕も含めて多くの方が自分が思う”普通”を他者に押しつけていないだろうか。
直接的に押し付けていなくても、”そういう目”で評価してしまうというのも間接的に押し付けていると言えなくもないと思う。
ただこれはとても難しい問題だ。
実際差別や偏見の介入手段として社会心理学的に研究されて出てきた実績をパブリックに公開しても、銃や爆弾による攻撃は世界で為されてしまっているからだ。

だが、「自分が”そういう目”をしていないだろうかというメタ認知を働かせるという余白を作らないと」と思うだけでも価値はあると思う。
様々な立場での批判があるのは承知だが、是枝監督の「怪物」も、本作品である「正欲」も、
そういうメタ認知のメディアとして機能するのではないかと期待してしまう。
それほど細かく描写されているいい作品だと思った。

もう一度改めて。
その人、いや自分自身も含めてほしい。
「好きなもの」の複雑さを考慮すること。
わからなくても、単純化したほうが楽だとしても、
そのもっと奥にある何かに対しての余白を想定してみてほしい。
僕自身もそうありたい。

他人に触れるということ

東野絢香演じる、神戸八重子は男性全般に対して恐怖心がある登場人物。
男性に性的な目で見られているという観念により過呼吸などを起こしてしまうそう。家族である兄に対しても。
しかし、同じ大学のダンスサークルに所属していた佐藤寛太演じる、諸橋大也に対しては過呼吸やパニックになるようなことはない。
この二人の詳細に関してはおそらく原作で細かく描かれているのではないかと推測している(そのためはやく読みたい)。
八重子にどんな過去があったのか映画を見ただけでは推測できないが、八重子は大也に対して自分の思いをぶつける。
この描写を見て、八重子はとても強いなと思った。この八重子の葛藤の描写が映画では恐らくちゃんと伝わり切れなかったと思う。かなり勇気のある行動だ。
それゆえ「私たちは変わらなきゃいけない」という前置きを大也に置いたのだろう。
でも同時に強すぎるとも思ってしまった。
もちろん難しいといいつつ行動することを避けるというのは展開しないだろうが、踏み出したくても踏み出せないなんてことはたくさんあるしそれらを否定してしまうことはよくない
(作品内ではそういう意図は決してないと思う。しかしこのような描写をみて否定してしまいたくなる人もなかにはいるのでそういう人に向けてその気持ちを否定しなくてもいいんだよと伝えたいため、こんな回りくどい表現になったことを詫びたい)。

八重子は他者から”触れられる”ということへの恐怖を抱えていたが、
自ら”触れにいく”という行為を通して何か感じるものがあったのではないかと思うと、
他者とのコミュニケーションにおいて能動的な側面による影響というのは、頭では理解するのが難しいなにかがあるのではないかと考えてしまった。

新垣結衣演じる桐生夏月と、磯村勇斗演じる佐々木佳道が、”セックス”の動きを確認しているシーン。
夏月が「行為の後に疲れて上からかぶさってくるのをやってほしい」と佳道に頼み、佳道がかぶさった後佳道の背中を抱きながら放ったセリフ、
『ここにいていいって言ってもらえているみたい』
『どうしよ。私もう1人で生きとった世界に戻れんかも』
2人の性的指向は男女の”セックス”ではないが、”触れる”ということを通して改めて他者との交流に思いを馳せるあのシーンをみて考えるものがあった。

自分自身の嗜好を受け入れてもらえない&共感する他者が少ないが故の孤立感。
受け入れてもらえる&共感できる他者と出会えた時の喜びや安堵感。そして期待感故の苦しみ。
これらの感情はどんな人にも通ずるものがあるのではないかと思う。
他者とのコミュニケーションにおいて、
「理解できないから」とか
「自分には興味がないから」などで対象を遠ざけるというのを否定したいわけじゃない。そういうのが真っ先に出てくるのはしょうがないから。
ちょこっとだけでいい、だからこそ”触れてみる”という能動的な気合を頭の隅の方に持っておくことは大事なことなのかもしれない。


”正しさ”の向こう側

週刊少年ジャンプで連載されていた岸本斉史先生の「NARUTO」という作品に、『うちはカカシ』というキャラクターがいる。
そのうちはカカシの有名なセリフがある、
『忍びの世界でルールや掟を守れないやつはクズ呼ばわりされる。 けどな仲間を大切にしない奴はそれ以上のクズだ。』
NARUTOを読んで小学生を過ごした僕からするとこのセリフのテーマだけで1記事書けてしまうがここではやめておく。

「正しさとはなんなのか」という問いは耳が取れるほど議論されてきたテーマである。
ここではそんな議論の要約&歴史的背景を垂れるということはしないし、僕の能力不足によりできない。
しかし、映画の最後のシーン。夏月が寺井啓喜に放ったセリフがある、
『自分がどういう人間か、人に説明できなくて息が出来なくなったことってありますか。
生きるために必死だった道のりを「ありえない」って簡単に片づけられたことありますか。
誰に説明したってわかってもらえない同士どうにか繋がりあって生きているんです。
あなたが信じなくても私たちはここにいます。』
『(寺井啓喜が佳道への伝言を聞く)普通のことです。「いなくならないから」って。』
これは映画終盤でコアなメッセージとしてビシッと決まったセリフではあるが、
離婚調停中の寺井に対してという夏月と寺井の対比が改めて示されたというの相まって個人的には心に残った。

佳道も夏月も自身の境遇を共有できる他者に巡り合うことができた。
それらは必ずしも一般的に説明できて合意を得れそうな欲であっただろうか。
”社会的”な正しさというものと整合性は高かっただろうか。
もちろん小児性愛による行為をなんでもかんでも許すという立場を僕は取らない。ジャニーズ問題然り、たくさんの被害者やそれによって苦しめられた人々がいるからだ。
しかし我々が論拠としているものは何なのかという深掘りは怠ってはいけない。
もし我々が”社会的に・道徳的に”という文言を用いるのであれば、その社会はいつ・どこからやってきたのか、その道徳というのはどういう事例の蓄積によって広まったのか、問わなければいけない。
これはとても腰の重い作業だ。
だがもしそのような文言を用いて弾劾するのであれば、必ず通るべき道のりだと個人的には思っている。
僕はそのような作業を自分なりにこれからも続けていきたいし、”社会的な正しさ”、”普通”というステレオタイプに対して常に問いをぶつけていきたいと思っている。

諌山創先生の「進撃の巨人」という作品が大好きで、特にアルミンが好きなのだが、
まさにアルミンは常に考え続ける。しかし人生は残酷にも決断を迫られるときがある。
考え続けることは大事というか必須だ。しかし、自分の都合で世界は進んでいない。どこかのタイミングで決断・行動しなくてはいけない。
それと同じように僕は様々な問題を多角的に吟味しつつ、目の前の現象を考察していくだろうが、
自分の立場や状況によって選択と集中をせざるを得なくなるだろう。
その際どんな決断をしても僕は後悔し続ける。
だからといって多角的に考え続けることはやめる理由にはならない。

本作品「正欲」で扱われているテーマもまさしくそうだ。
世界には様々な嗜好・性的指向を持った人がいる。
彼ら彼女ら一人一人に”触れる”ことはムリだ。
一人一人に対して共感することはできない。僕の中にも嗜好はあるからだ。
「ぶつかり合わせるのではなく、互いに尊重し合う」みたいな何万回もダビングされたことを言うつもりは毛頭ない。
ぶつかるのだ。必然的に。
もしそうでないと思うのなら、一刻も早くウクライナvs.ロシア、ハマスvs.イスラエルの現状を改善してくれ。

自分自身の根幹はどこかでなにかとぶつかる。折り合いがつかない。
だからといってそれをその根幹を否定する理由にする必要もない。
とても難しいが、自身の根幹を共有できる人に巡り逢えたらそれはとても素敵なことだと思う。
それを求め続けろという強い語気を示したくはない。
ただどこかで”正しさ”の向こう側で待ち合わせが出来る人に会えるのではないかと祈りながら時間を過ごすというのも悪くないんじゃないかと、
ただそう思っている。



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