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個別最適な学びについて考える(25)ー西林克彦(1994)間違いだらけの学習論-なぜ勉強が身につかないか-ーから

おはようございます!

今回は,西林克彦氏による1994年の著書『間違いだらけの学習論-なぜ勉強が身につかないか-』をテーマに,学習の過程に潜む間違いや学習に関しての私たちの勘違いに焦点を当て,なぜ勉強が身につかないのかを共に考えていきます。

さて、一緒に学びと向き合い、西林氏の提言を通じて学習の本質に迫っていくことで、新たな気づきやアプローチが見えてくるかもしれません。どうぞお楽しみにしていてください!

 教える内容の題目的なものを「何」,それを具体化して教える内容を「なに」とよぶことにします。
(中略)
 「内容」と「方法」を分けて考えることの最大の問題点は,教え方をいろいろ工夫して教えた場合にも,それは「方法」だけの工夫であって,「内容」は変わらないのだとされることです。同じ「何」を扱っているのだから,同じことを教えているとされてしまうことです。けれども,「何のなに」と考えると,教え方の工夫は,かなりの場合,「内容」の改善であったり豊富化であったりするということが意識されるようになってくるでしょう。

西林克彦(1994)間違いだらけの学習論-なぜ勉強が身につかないか-.新曜社,東京

最終的に,学んでいくのは学習者になってくるので,受け手によって解釈は変わってくるのだと思います。
きっと,学習の手引きに「内容」と「方法」を分けていてあったとしても,子供たちが認識するまでに時間はかかると思われます。それが,同じことを教えているとされてしまうことの所以なのかもしれません。

でも,実は教え方の工夫によって,「内容」の改善であったり豊富化であったりするということの狙いもあるはずで,こうしたことを受けてが読み取らなければなりません。

 また,教師は,指示した活動を学習者がしていると,それに対応して意図した学習を学習者がしていると思いやすいようです。〈観察〉を指示して・学習者がそれを見ていれば,〈観察〉をしていると思い込んでいます。しかし,現実にはそうではなく,学習者の認知構造に合うような形で方向づけができていなければ,何を〈観察〉すれば良いのかすら,はっきりしないことも多いのです。
 自身の認知構造を経由して情報を受け取っているということは,学習者が,自分なりの論理を作り上げる存在であるということも意味しています。個々の記述としては必ずしも間違ってはいないのですが,教科書の不十分な説明や個別的知識の羅列から,学習者なりの間違った考えを積極的に作り上げることも見られます。
 教師は学習者がいかなる学習をしているのかを見なければならないし,見えなければなりません。学習者は白紙ではないのですから,学習者がどんな認知構造を使って理解し,どんな認知構造を作りあげているかを見なければならないし、また見えなければならないのです。

西林克彦(1994)間違いだらけの学習論-なぜ勉強が身につかないか-.新曜社,東京

教師は子どもが学べていると勘違いしがちかもしれません。行動をしていれば,学習しているということにはなりません。
教科書の不十分な説明や個別的知識の羅列から,学習者なりの間違った考えを積極的に作り上げることをしている可能性もあります。

だからこそ,教師は学習者がいかなる学習をしているのか見なければならないし,観察していく必要があるのだと思いました。

本日はここまで!また次回の記事でお会いしましょう!
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