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ふるさとを語ろう 廃村寸前の村

 私の故郷ふるさとではないのですが、
母の故郷を紹介したいと思います。
和歌山県田辺市中辺路小松原
 集落の裏ひと山越えれば竜神、反対側をひと山越えれば十津川と、
国道371号線を川上に車を進めてゆくと、途中 左 竜神スカイラインと 右 小松原の矢印標識が現れます。
小松原の集落を川上に進むと、道がなくなりここで途絶えます。
その先はまるで、ジブリのもののけ姫に出てきそうな川と山林が続いています。
 川は浅く、ところどころに小さな噴水のように水が湧いています。
この湧き水は富田川へと合流して、白浜の海に流れていきます。
白浜の海が綺麗なのも納得いきますね。
 


 話を戻しますが、田辺市中辺路小松原の集落は、
家が30件ほど、山間に寄り添うように建っています。
今はほとんどが空き家で、実際に住んでいる家は
5件ほどしかありません。



 住んでいるのはほとんど老人で、一番若い人でも、
60歳を越えています。
 若い人は学校を卒業するとここを出ていきます。
そして、住んでいた人達も年老いていくため、
街に出た子供達が面倒を見るために連れて行ってしまいます。
結局どんどん人口が減り、その内、親が亡くなると、
小松原の実家に帰ることもなく、段々と廃屋はいおくになっていきます。
私の祖母の住んでいた家の両隣は、もう何十年も誰も訪れることなく、
どんどんと廃屋になっていっています。
 右隣の家には私より年下の姉妹がお父さんと住んでいました。
名前は『育子』と『真知子』だったように記憶しています。
いくちゃん・・・まちこちゃん・・・と呼んでよく
遊んでいました。私は大阪に住んでいて、小松原に住んでいたわけじゃないのですが、冬休み、夏休みはほとんど、小松原に行っていました。
夏休みなどは、ほぼ一か月近くも祖母の家で過ごしていました。
夏休みに入ると、母は私を小松原に送って盆頃にまた来て、
盆が過ぎ一緒に帰るといった感じでした。
 小学校高学年になると、天王寺まで送ってもらい
電車で紀伊田辺まで行き、紀伊田辺からバスで小松原まで、
ひとりで行くようになっていました。
母も仕事していたので、休みに入ると私は厄介者だったのかも?(爆)
それでも私はとにかく小松原が好きで、祖父、祖母が
大好きで、なにもない田舎だけど、そこには友達も数人いて、
川で遊んだり、山に登ったり不思議と退屈しなかった。
 いまでも忘れられないのは、川原で焚火のような火をおこし、男の子たちがもりを使い取った鮎をその辺の枯れ木の枝に刺して焼いて食べた事、ビックリするくらい美味しかった。
 そして夜は祖父と祖母に挟まれて寝ていました。

 今は祖父も祖母も主のいない家だけが、小松原に今もあります。
この家で生まれ育った母も亡くなり、それでも私は毎年1度は
小松原のこの主のいない家に行き、風を入れたり掃除をしたり
しています。でも私が死んでしまったら、おそらく誰も行かなくなり、
他の家と同じように、廃虚になったしまうのだろうな、
と思う寂しくて涙さえ出てきます。
 後20年いえそれよりもっと早く廃村状態になってしまうだろう。
どうすることも出来ないのかな・・・と思う反面、
なんとかしたいとも思い。
試行錯誤しています。



https://note.com/naniwamoon/m/mc05862394fde



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