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ブルーピリオドを読んで美術館に行ってみた

私は美術館が苦手だ。楽しみ方がよくわからない。

作品から何を感じ取ればいいのかわからないし、何を感じたところで、素人の自分が感じたことは間違っているのではないかとか、美術をわかっている人にとってはそんなこと初歩の初歩なんだろうなとか思ってしまう。

作品をみるのではなくて、真っ先に解説文を熟読する。そして他人の解釈に流されてしまう。他人をなぞって、己の感性で勝負できない虚しさを感じるのである。

そもそも小学生の頃から不器用で絵心がなかった私は、美術の授業が嫌いだった。中学生になると「副教科の美術」はただただ鬱陶しい時間になった。

もちろん今も自分で絵を描くわけでもないので、美術館に行っても創作の参考にもしない(できない)。


そんな私でも、大学の卒業旅行でイタリア・フランス・イギリスに行ったときにはたくさんの美術館に行った。

ヴァチカン美術館、ウフィツィ美術館、ルーヴル美術館、オランジュリー、オルセー美術館、ロダン美術館、ナショナル・ギャラリー、テート・モダン。加えて美術館以外にもサン・ピエトロ大聖堂、フォロ・ロマーノという遺跡、ヴェルサイユ宮殿、大英博物館、ウエストミンスター寺院の礼拝堂、セント・ポール大聖堂の天井画も見に行った。

狂ったように美術を鑑賞している。

なぜなら、これらのスポットがガイドブックに目玉のスポットとして載ってたからだ。

連日広い館内を歩き回って「あ、教科書に載ってた絵だ!」「ガイドブックに載っている絵だ!」と実物をただ目に映して、記念に自撮りをするだけ。イタリア語かフランス語か英語で書かれていたので、得意の解説文熟読もできなかった。

自分の感受性の乏しさに絶望した。

そもそも日本で美術館なんてほとんど行かないのに、海外旅行になった途端に「観光名所だから行く」なんて愚かだった。ガイドブックに載っていたから!行ったけど!


そんなアート初心者の私だったが、昨年『ブルーピリオド』というマンガにハマった。

高校2年生の主人公・矢口八虎が、ある1枚の絵に心を奪われて色あせた日常が一変。美大最難関の東京藝大油画科へ現役合格を目指す、アート系スポ根マンガである。

絵を描くことによって、周囲と、そして自分と向き合う八虎の姿が最高で最高で最高なのである。その胸熱ストーリーは、東京藝大受験と作品制作のあいだに生まれる登場人物の葛藤を通じて「美術」とは何かを読者に教えてくれる。

そんな『ブルーピリオド』のなかに、絵作りに悩んだ八虎が、自分の”好き”を知るために、予備校のクラスメイトと美術館に行くシーンがある。

美大を志してまもない八虎は、美術館の名画のなかに真面目に正解を探そうとする。その姿を見てクラスメイトは”買いつけごっこ”、つまり「自宅に置くとしたらどれがいいか」という感覚で鑑賞することを提案する。

生活のレベルに降りた感覚で絵画を見ることで、「(美術館は)高尚で敷居の高い場所じゃなくていいのかも」「よくわかんない、で止まってた思考がちょっと動き出した」と八虎も変化していった。

八虎の大ファンと化した私も”自分が好きなものは何か”を確かめるために美術館に行ってみた。


行ったのは自宅から一番近い、埼玉県立近代美術館。

たまたまやっていた『美男におわす』という展示の最終日だった。

埼玉県立近代美術館の外観はこんな感じ。スタイリッシュ!!!

美術館に入ってチケットを買う。ロッカーに荷物を預けて、いざ2階の展示室へ。(ロッカーには時限爆弾が仕掛けてあった。テンションが上がっているので、現代アートっぽい爆弾を連写する。なんらかのメタファー?!)

『美男におわす』の展示室に入ると、壁一面に大きな横長の絵が一枚ドーンと飾られている。RPGに出てきそうな美少年が甲冑を着て馬に乗っている絵だ。2010年代の作品である。入り口の狭い展示室が人でいっぱいだったので(ちょっと期待していた絵と違っていたので)、30秒くらいで次の展示室に進む。

メインの展示室には和服を着ている人がたくさんいる。他にも個性的なファッションの人が多い。普段の私の生活圏にはいない人たちである。この人たちは感受性が豊かで、アイデンティティをしっかり確立している人たちなんだろう。おしゃれである。かっこよすぎる。

一体このアイデンティティを確立しているお方たちは、絵を見て何を感じているのだろう。

私と同じ絵を見ながら、次元の違う独自の解釈をしているのだろうか。こんなに感受性が豊かなお方たちがたくさんいらっしゃるのであれば、日本の未来も安泰である。

程なくして気づいたのだが、美術館では同じタイミングで展示室に入った人と、なんとなく同じペースで順路を進む。

私と同じタイミングで入ったのは、大学生くらいの男女4人組。

きっと美術の知識が豊富なデザイン系の大学生とかなんだろう。この絵から、自分が制作している作品に取り入れるエッセンスを吸収しているんだろう。卒業後はミニマルなデザインのロゴの会社に就職して、ガラス張りオフィスで丸メガネにカーディガンで仕事をして、グッドデザイン賞を取ってしまうんだろう。

彼らの歩くペースが気になる。そして自分の歩くペースも気になる。あんまりにも早いペースで進むと「こいつなにもわかってねえな」と思われそうだからだ。

お分かりいただけるように、作品の鑑賞に全く集中できていない。邪念の塊である。

気を取り直して、作品の鑑賞に集中しようとした。ところが、どうしても作品よりも解説文に目がいってしまう。作品をちゃんと観ずに解説文を熟読する自分の姿を客観的に想像してみる。ダサすぎる。作品と向き合って、自分の感性で解釈をするのが美術鑑賞だろうというのに・・・・・・。

自分に詩を読む才覚がないと思わざるをえないのは、そのような真相を読み取れなかったからではなく、詩人の種明かしになびいて、最初の茫漠とした印象を素直に手放したことによっている。言葉は、だれかがだれかから借りた空の器のようなもので、荷を積み荷を降ろしてふたたび空になったとき、はじめてひとつの契約が終わる。ほんとうの言葉は、いったん空になった船を見つけて、もう一度借りたときに生まれるのだ。

以前読んだ、堀江敏幸の『その姿の消し方」という小説の一節を思い出して、激しく共感してしまった。

こんなふうに終始いらんことを考えてソワソワしていた、はじめてのひとり美術館だった。

それでも、この展示のなかで強く印象に残った作品が2つある。


一つ目は、この木彫りの半身像だ。

タンクトップの男性の胸から上の像で、”そこにある”という存在感がすごかった。

見ていてなぜだか胸が詰まる。その理由は、少年の表情が憂いを帯びているからだろうか。少年の目はどこか遠くを見つめている。その目は一体何を思っているのか。

タイトルをみる。

舟越桂『ルディーの走る理由』

解説文には、こんなようなことが書いてあった(うろ覚えです)

タンクトップ姿で立ち止まっている少年。おそらく走った後ではないでしょうか。彼はなぜ走ったのでしょう。この作品と『ルディーの走る理由』というタイトルにはズレがあります。なぜならこの少年は走っていないからです。

たしかにそうだ。作品とタイトルにはズレがある。それでもそこに違和感がないのは、この少年が背負う物語が想像できるからだ。

ーー彼は走ってきたのだろうか
大切な何かを追って

ーーそれともこれから走るのだろうか
戻らない大切な何かのために

この木彫の鑑賞者は「彼はなぜ走るのか」を考える。その前後の物語を自由に想像する。

”そこにある”だけで、鑑賞者の想像の装置になる。この木彫りの半身像は触媒のような作品だと思った。

逆に言うと、この木彫自体には物体として以上の意味はない。だからこそ、この作品は無限なのだ。

芸術作品の存在意義を少し感じることができた。


二つ目は金子國義の『メッセージ』という作品(油彩・カンバス)だ。

キリスト教を主題とした作品で、青年が手に持つザクロの実は、キリスト教の中で復活や神の祝福、教会、殉教者の血などの意味を持つ。また、背後にみられる魚は洗礼やキリストを暗示する。

絵を見た感想としては、黒の質感がすごかった。光沢がある純粋な黒。艶のある絵具が盛り上がっていた。これはインターネットの画像や図録で見ても感じることができない、素材の美しさである。

3分近く、この絵の前に立って眺めていた。

『ブルーピリオド』でも予備校の大場先生が言っていた。

「画材ってさ ソレでしか出せないニュアンスが必ずあるのよ」
「絵画は二次元じゃない 三次元なの」
「みんな自分の表現に合う絵肌(マチエール)を作ってる」

つまり、何を使って表現したかというところにも作者の意思があるということである。

作者は、この息を飲むほど美しい黒で何かを暗示しているのだろう。それを想像してみる。

この想像を広げるためには、宗教画についての知識も必要だ。なぜ宗教画というものが描かれたのか、絵は宗教においてどんな役割を果たすのか、どんな人が宗教画を描くのか・・・・・・。歴史・背景・基礎知識を勉強してみたいと思った。


特別展示を見終わって、地下階にある一般展示も行ってみた。そこでも深く印象に残る一枚の絵に出会った。

尾崎ゆみの『none』という作品だ。

大きなグレーのキャンパスに○と×がいくつも並ぶ。この絵をみて私が思い出したのは、映画『すばらしき世界』だ。

役所広司が演じる主人公の三上正夫は、人生の大半を刑務所で過ごしてきた元殺人犯。見た目は強面でカッと頭に血がのぼりやすい性格だが、実直で優しく、困っている人を放っておけない男。出所後、なんとか社会に馴染もうと悪戦苦闘する三上に、テレビマンの津乃田と吉澤が番組のネタにしようとすり寄ってくる・・・・・・。

人懐こくて、他人の苦境を見過ごせない真っ直ぐな正義感の持ち主でありながら、一度ブチ切れると歯止めが効かなくなりときに恐ろしい怪物になる。そんな三上の両面の姿を目撃する津乃田(そして画面の外側の私たち)は、三上という男の本当の顔はどれなのかを見つめる。

この社会でうまく生きていくには純粋すぎた三上という男の儚さが、「私たちが生きる今の時代は”すばらしき世界”なのか?」ーーそう問いかけてくる。

本作のパンフレットには、武田砂鉄さんによる以下のような解説があった。

「三上は何度も人を裏切る。同時に、何度も人を助ける。その行動を○と×で表せば、×→○→○→×→○→×→×→○→×みたいな感じだろうか。最終地点が×でならば、やはりこいつは×なんだと言われ、その時点が○でも、いやでもこいつ、ちょっと前まで×だったんだぜ、と言われる。
こうなると、この人がずっと○でいられるのは困難で、この人をいつまでも×だと判断する人を減らさなければ、永遠に×のままだ。目の前にやってきた人に自分は○であると証明続けなければならない人が、何度かの×ですべてをひっくり返してしまう。
当人も、周辺の人も、○か×かを決めるばかりで、○がどのような輝きをしていたかを見つめようとしない。でも、その輝きを見つめることこそが、一人の人間を救うかもしれない。この映画は、その○の輝きを教えてくれる映画だ。たとえ×が増えても、○の輝きを信頼する。それはつまり、人間を信頼しているってことなのだ。ただ、本当は最後まで信頼できたのかどうか。信頼してくれたのかどうか。答えは定かではない」

この○と×が並んだ絵を見たとき、三上という人間に対する私たちの利己的で冷たい目線が異なる形で表現されたものに思えた。

大きなキャンバスに不規則に並んだ○と×、それら一つ一つの中身を評価するのか。それとも○と×の集合として絵全体を評価するのか。この作品からそんなことを問いかけられた気がした。

実際には違うかもしれない。一般展示の作品には解説文もなくて、インターネットで検索しても出てこないので、確かめようがない。

しかし、この絵の鑑賞者である私が、自らの経験を目の前にある絵を反射させてひとつの解釈をした。これは紛れもない私の解釈だ。そこに不正解なんてものはないはずだ。

この絵との出会いは、”自分の奥底に蓄えられていた物事の新しい形”との出会いでもあった。自分の価値観を形成しているものを再発見することは、とても意味があることだ。

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こうして『ブルーピリオド』に触発されて行った美術館鑑賞の一日が終わった。

これまで楽しみ方がわからなくて美術館を敬遠していたけれど、行ってよかった。

その日以降、私は『ルディーの走る理由』の青年が何を想っていたのかを知るために、舟越桂さんの本を読んでみたし、彼の別の作品がみられる展示にも足を運んだ。

そして『メッセージ』の黒についての想像を評価するために、宗教画の基礎知識についてインターネットで調べてみた。

また、『none』についての自分なりの解釈を他の人と共有し合ったら、自分とは異なったいろんな見方や新しい発見があったりして、さらに楽しいんだろうな。なんて思って(そんな友人はいないので)とりあえずこのnoteを書いてみた。


自分の好きを知って、自分と向き合うことができる。同時に世界が広がる。美術館はそんな場所だ。

解説文をたすけにしながら、自分がなんとなくでも好きだなと思える作品を見つけられればいい。どうしてその作品が気になったのか、なにが自分に響いたのか。作品の外を想像してみたり、自分の経験と照らし合わせてみたりして考える。

それを繰り返して、自分の内部の熱い鉄のようなものを何度も叩いて強度を高めていくと、自分なりの感性が確立していくのかもしれない。

また時間を作って美術館に行こう。


ちなみに5月23日に『ブルーピリオド』の新刊が8ヶ月ぶりに発売されました! うれしい!

フジさん、惑わすねぇ〜。とにかくおすすめの作品です!


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