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小川未明『初夏の不思議』読書感想文(たかつかな)

 意地悪な人にはどうか天罰が下ってほしいと、そう思ってしまうのは何故だろう。物語の中に出てくる「意地悪な人」は、どうして意地悪なのか、その理由が書かれていないことが多い。「意地悪」とレッテルを貼られた人は、その「意地の悪い心や行動」がどうして生じてしまったのか。私にはそのことが気になる。

 『初夏の不思議』はすいかのおはなし。
百姓さんが丹精込めて立派なすいかを作り、八百屋さんは初物のすいかに見合う値段をつけ、小僧に町で売ってくるように言いつけた。
ところがお客の女は値が高いと文句を言い、売り物のすいかに傷をつけた。さらには通りがかった薬屋にまで「このすいかの傷を薬で直せ」と無理難題を吹っ掛ける。すると薬屋はすいかに薬を塗り、傷口を直してしまった。「このすいかを食べた人は長生きする。夜店で売るといい値が付く」と言い残して。
さて小僧が夜店ですいかを売っていると、難癖をつけた女がお金を持ってあのすいかを買いに来た。持ち帰ったすいかを切ってみると……。

 私は店頭販売員していた時に、理不尽な難癖をつけてきた客を相手にしたことがある。この物語の中の小僧のように。その体験は未知との遭遇であり、その客は私にとって未確認生物だった。今すぐ「ピーーー(自主規制)」と思った。だからこの展開は胸がすく思いだった。

だが、「意地悪な人に天罰が下る」という流れなのに、確かにスッキリしたはずなのに、私にはモヤモヤが残った。私は「小僧側」で物語を読んでしまったが、「意地悪な女側」に陥ってしまうことだってあるんじゃないだろうか。

「あまり、おまえが邪慳だから、見せしめのために、神さまがこうしてお見せになったのだ。」と、おじいさんはいわれました。
 円い、みずみずしい月が、ちょうど窓からのぞいていました。それから、女は、やさしい、いい人になったということであります。

 物語の締めくくりはこうだ。いい人になったということは、その素質を持っていたということでもある。どうしてこの人は意地悪な人になってしまったのだろう。彼女の人生はどんなものだったのだろう。性格が捻じ曲がるほど嫌な目にあったのか、それとも性格を諭してくれる人がこの時までいなかったのか。いたとしてその声が耳に入らぬほどになってしまっていたからこそ、神さまに毒気を抜かれたのか。

 先日、友人と話していると「爆破予告が届いた施設があったが、結局何も起こらなかった」という話題になった。その施設では職員や警備員が当日の体制を整えることや、事後の対応にてんやわんやだったらしいと。そこで友人は「なんで爆破予告なんてするんやろうね」と腹を立てていた。私は「そんなことをしてしまうくらいの大きなストレスがあったのかもしれない」と答えた。「爆破予告という、たくさんのひとに大きな迷惑をかける行為をしてしまう程のストレスがあったんじゃないか」と思ったからだ。

 今、多かれ少なかれ日常が変化している。平常を行えないこと、我慢をすること、同調圧力、仕事の業種によっては疲弊したり離職せざるをえなかったりするだろう。そんな特殊な状況がいつまで続くかわからない中、政府による対応にも希望が持てず、孤立してしまっている人たちがたくさんいる。もしかしたら、そういう人たちの中の一人だったのかもしれない。そう考えたのだ。

もちろん、そのことが「悪いことをしてもいい理由」には到底ならない。しかし、罪と罰があるなら、罪になる前の予防策があろうというものだ。


 人間は弱い。孤立するととたんに脆く崩れてしまう部分がある。自分を守ろうとして刃を他人に向けてしまうときがある。その可能性は私にもある。誰にでもある。だからこそ、声を掛け合い助け合い、人を孤立させない。一人で頑張らせない。協力し合い、そういう社会を作ることが、「意地悪な人」を少なくする予防策になるのではないだろうか。例外はあるだろうし、「生まれ持っての意地悪な人」もいるだろう。罰だって時には必要なことだろう。「いつか天罰が下る」というのは、今まさに苦しい人にとっての小さな望みだ。けれど、まずはその苦しい状況を作らないための取り組みにも目を向けたいと思う。

 あと、単純に、このすいかはその後ちゃんと食べたのかどうかが気になる。お百姓さんが丹精込めて作ったすいかは、おいしくいただいてこそだ。今夜は食後にすいかを食べることにする。きっとこの夏最後のすいかになるだろう。

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小川未明『初夏の不思議』読書感想文 たかつかな


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