一歩は一歩
くらぶれど 一歩は一歩 亀の道
私の父は人間嫌いの寂しがりやです。
誰よりも人に受け入れてほしい欲求を持ちながら、人の態度に一喜一憂し、その度に人を嫌いになり、そして自分をも嫌いになるのです。
私は小さい頃からそんな父を側で見てきましたが、75歳を迎えても、自分の気に入らない事があると怒り散らし、理想と現実の間でシクシクと泣いていおられます。
そんな父ですが、近くの寺の座禅会に通っています。きっかけは私が一時、実家に帰って3ヶ月ほど仮住まいをしていた時、散歩をしていると寺の看板に「満月の座禅会」の文字を見つけ、先に私が通い始めたのですが、父も興味を持ち、そこから通い続けているのです。
和尚は永平寺で修行をつんだ物腰の柔らかい方で、父の話をゆっくりと受け止めてくださるそう。そんな和尚に心ひかれ、父の部屋には仏教の本がズラリと並び、私が帰省すると、諸行無常の仏教小話を聞かせてくれます。
ある時、父は電車に乗っていたそうなのですが、若い女の子がケージに犬を連れて乗っていたそう。なれないせいか犬は吠えてしまい、父のイライラは頂点に…。
大声で怒鳴り散らし、女の子は恐怖で縮こまり、小さな声で「すみません…」と謝ったのです。
家に帰って冷静になった父は、私に「あんな言い方をしてしまったが、何か理由があって犬と電車に乗っていたのかもしれない」と言うのです。
私は驚きました。父は大の犬嫌い。近所でちょっと犬が吠えようもんなら、うるせぇ!と啖呵を切る始末。(ご近所の方々本当に申し訳ない…)
一度として後悔の念をつぶやいた事はないのです。これは、紛れもない一歩です。
もちろん、一番側にいる母は「きまぐれよ」との事ですが…私からすればとんでもない一歩。
長年、何度も喧嘩をし、家族の中で一番ぶつかってきた私と父。お互い頑固で、その上私は生意気な性格、父は女でなければ何度殴ったかしれない、と言っていました。
人から見れば何にも変わっていないように見えても、必ず一歩ずつ進んでいるのです。誰かの輝かしい躍進と比べるよりも、自分の一歩くらい自分が認めてあげたいものです。そして父から見た私も、そうであれば嬉しいなと思うのです。
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