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上野にある不忍池 かつては競馬場になっていたってホント!?【4/24は日本ダービー記念日】


本日4月24日は、日本ダービー記念日です。
1932(昭和7)年の今日、東京の目黒競馬場で日本初のダービー(第1回 東京優駿大競走)が開催されました。この「ダービー」は、イギリスの競馬「ダービーステイクス(Derby Stakes)」にならって企画されました。もともと第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーが1780年に創設した、ロンドン郊外で開催されるサラブレット3歳馬ナンバーワンを決めるレースのことで、イギリス競馬界最高の行事だった。日本を含めた世界各国は、それにならって「ダービー」という名前をつけたレースを開催するようになりました。

日本初のダービー当日は、あいにくの雨で馬場は不良。19頭が出走し、優勝したのは1番人気のワカタカという馬でした。馬券は1枚20円で払戻金は単勝39円。1レース1人1枚のみ。当時の月給は普通60~70円なので、かなり高価な馬券でした。

本日は、この競馬に絡んだ雑学をご紹介します。

不忍池競馬場があった

東京の名所と名高い上野の不忍池。弁天堂と水上音楽堂が浮かぶように建ち、池の一面にはハスが繁茂して神秘的な風合いを醸している観光スポットです。

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この不忍池が、かつて競馬場だったというのです。
えっ、ここが!? 風光明媚なこの場所が競馬場だったなんて想像もつきませんね。

ですがここには、「不忍池競馬場」が確かに存在しました。池の周りがコースとなっていて、そこを馬が走っていたそうです。コースの真ん中に池があるなんて、いい雰囲気の競馬場ですね。

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ここに競馬場がつくられらのは、1884(明治17)年のことです。日本初のダービーが催される前から、競馬はあったわけですね。
この年の11月1日、不忍池競馬場で第一回目のレースが開催されました。ただし、ダービーと違って馬券などの発売はなく、入場料と寄付金だけで運営していたそうです。あくまで観戦するだけの興行だったのでしょう。

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上流階級向けの催しだったため、観客はおもに正装で、明治天皇も観戦に訪れられました。限られた人しか訪れないような優雅な社交場だったのです。

いまの競馬とは大違いですね。「差ぁせぇぇぇー!!!」のような掛け声や「あ゛あ゛ぁぁぁ!」みたいな奇声が響き渡るのがいまの競馬場ですから…

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野球場になる計画もあった

この不忍池の競馬は、10年ほどその興行が続いたといわれています。その後、競馬場ではなくなったあとには、東京勧業博覧会が開かれたり、関東大震災のときは池の水が消火用として使われ、被災者のためのテントやバラックが並ぶ難民キャンプになったりするなど、東京の市民とともに歩んできました。戦時から戦後にかけては食糧難のために水田が営まれた時期もあります。

その後、この不忍池で大変な計画が起こりました。なんと、田んぼ跡を整地して、プロ野球チームの野球場にしようという案が出たのです。
ですが、この計画に地元の人は猛反対。この風光明媚な池が埋め立てられて姿を消してしまうからです。
当時の上野観光連盟は、上野駅長や国立博物館長、科学博物館長などに協力を取り付け、メディアを通じて埋め立て反対をアピールしました。そして最終的には、東京都議会の承認を得られず、野球場建設計画は頓挫しました。

ここに野球場があれば、なんとも面白い町だっただろうなと想像してしまいますが、そうもいきませんでした。今の不忍池の景観と引き換えにはできなかったというわけです。(競馬場の古写真▼)

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参考資料:

『上野駅物語』塩田道夫(弘済出版社)
『江戸東京物語 上野・日光御成道界隈』新潮社編(新潮社)
『「上野」時空遊行』浦井正明(プレジデント社)


Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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