見出し画像

震災という概念と、ひとのつながりの変化

阪神淡路大震災から28年経ちました。

当時、関西って地震ないじゃん、宮城から来てよかったねと言われていましたが、結局どちらも派手な地震に見舞われてます。。。

ここ数年で大きく変化したのは、人とのつながりです。


活断層という言葉をはじめて知りました。当時の上司が箕面に住んでいて、阪急伊丹駅が断層の上に横断して建てられていて、脱線したのでそちらへ向かっていました。
わたしは今と同じところに住んでおり、家は一部損壊でしたがめちゃくちゃ、裏の家の土台が崩れてきてうちのガス管を破壊、ガスのにおいが家に充満したので外へ出てました。

当時のラジオからは、大阪の様子しか流れていませんでしたが、こちらでは小高い丘の上にある自宅から、あちこちで火災が発生し煙のにおいがすごかった、なのにサイレンの音すらしていなかった。

主要道路がほとんど通れなくなっていて、近くの消防署は目の前の川からホースをひいて、川の向こう側の工場の一角全部焼けているのに水が届かず対応出来てませんでした。いま現在も、ずっと空き地のままです。

お昼くらいになると、神戸の惨状が報道されはじめます。上空はヘリの音がすごかった。杉様(杉良太郎)が近くの学校にヘリでやってきて、実家や近所の人たちに援助物資を運んできてたり、バイクで数日間かけて有名人がやってきたりしてましたが、2国沿いあたりの火災現場は誰も助けることが出来なかったと聞いています。

その後、建物は立て直しましたが、ずいぶんひとは減りました。

鉄道がぶつぶつ復活したので、2か月後から大阪の仕事場へ。途中、市営地下鉄→阪急→JRと乗り換えていましたが、白いマスクが真っ黒になるほど、ほこりだらけの街を歩いていました。それを半年続けていたので、肺がなんか吸い込んで何十年後かに病気になるのでは、と心配しています。


現在は妊娠中毒症の後遺症や、メンタルの病をしたこともあり、仕事場というところへ通うことが出来なくなりました。そこからもう20年です。

震災の頃を思い出すと、当時は本当に色々な人に助けられて生活していましたが、今は誰ひとり訪ねてきません。
今やっている事での関係ではつながれますが、それ以外では、ネットでもリアルでも、誰一人繋がれなくなりました。
いまは起業ブームだから、つながりを募集している人はいっぱいいるけど、先生と生徒という関係だけ。
つながりって、そんなんじゃなかった。師弟関係だけじゃなく、たまたま知り合ったり、一緒に何か企画をやったりしていた。特に、わたしは90年代から2000年代まで、大学の研究室の人たちなど企画関係で仕事をしていたので、「生徒になりませんか」にすごい抵抗があります。
「今わたし仕事してるんで、」っていうと「もっともうかるようにしませんか」…詐欺じゃん。結局、一緒に仕事をしてくれない。友達になってくれない。わたしの顔が札束にしか見えないのかな?

この神戸も、やっぱりつながれません。何度もいろいろな人と交渉したけど、仕事にも友人にも仲間にもなれない。
結局90年代からずっとフリーランスなんです。人形だけになったのがここ4年くらいで、その前はパソコンでの企画やイベント、イラストで仕事をしていました。
手芸でようやく仕事が出来るようになったとはいえ、他の方と絡むならイベントに出るのが一番なんですが、病気のため1日出店が出来ない。

だから、わたしがほしいのはノウハウじゃなく、仲間と病気の治療なんです。
書いてて心の整理がつきましたが、やはり次目指すのはイベント出店だな。

身体を治そう。。なんとかイベント出店出来るお金が、今年後半から作れそうなので。それまでに、作れる作品ももっと増やそう。



フォロワーさん、じゃない方、いつもたくさんの方に読んでいただいてとてもうれしいです。ありがとうございます。