【歴史豆知識】ありがたかった参勤交代 「お礼をする」ことの制度化
参勤交代といえば、江戸時代に多大な費用を掛けて、諸国の大名が国元と江戸との間を往復しなければならないものだった。しかも、武士は名分を重んじるから、お金もないのに借金をしてまで、格式に見合った服装や行列をして、この一大行事を藩主在世中に行わなければならなかった。
うん、まあ、たしかにその通りなのだけれど、実際はバイトを雇ってまで格式にあった人数を揃えたともいうし、宿泊費用を浮かすために、行列の速度はものすごい速度であったともいわれている。大変ですな。
参勤交代の源流となるものは江戸期より前にあり、ある勢力者が他のある勢力者に屈するときに、屈っしてしまった方は、屈した方に服属の証として出向く決まりがあり、これを「お礼をする」という。
徳川家康が出向いて秀吉の元に向かったのがいい例で、あれで服属したという証になったのだ。家康の場合、小牧長久手の戦いでは負けたとは言い難かったから、秀吉も一目置かざるを得なかったからこそ、自分の母親を人質として家康の元に送り、妹の朝日姫を家康の正妻にしたというのはその辺りの機敏がある。家康とて、秀吉の経済力や支配圏からすれば、戦では勝っても、いずれは圧迫されるから「お礼」をしにいったのだ。
江戸時代における参勤交代制度は三台将軍家光のときに定められたというが、実はその前から、諸大名は「お礼」のために江戸に赴いている。ただ、いつ頃江戸に行っていいのか分かりかねる面もあったし、一度江戸に入って、すがにはいサヨナラと帰国するわけにもいかない。スケジューリングがたたずに大名もそれなりに大変だったわけだ。
そこで、家光の時代に参勤交代が制度化されるようになり、参勤する時期と国元に帰る時期とが明確になったので、「お礼をする」ことが明確な決まりとして制度化されたのは、実は諸大名にとってはありがたいことだったとも云える。
ちなみに、徳川二代将軍秀忠は、三男坊であり、長男の信康は信長の命令によりなくなく家康が成敗したが、次男に秀康という人物がいてなかなかに勇猛であった。
翻って、二代将軍となった秀忠はおっとり型で、関ヶ原の戦いにも遅参するし、はっきりいえば武将の器ではない。
秀康の息子である松平忠直は当時、越前を領国にしていたが、秀忠の元になんて行くのはアホくさと思ったのだろうか、国元から関ヶ原辺りまで赴いて、逡巡して国元に戻ってしまうということを繰り返していたところ、秀忠により越前の領地を没収されてしまう。秀忠としても幕府の威厳を保つためにも、毅然とした措置が必要だったのであろう。
ともあれ、服属したものが出向く「お礼」という仕組みは吉宗の頃に諸大名も将軍家も財政難となり、緩和されるのだが、廃止されることは無かったのである。
そして少なくとも、江戸期初期においては、参勤交代の制度化は多少なりとも歓迎された面もあると思われる。
徳川の力が盤石だったという要素も大きいのだが。
教科書には載っていないであろう、ちょっとした江戸時代の歴史豆知識でした!
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