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掌篇小説「夏宵」

「夏宵、何してるんだ」
 僕たち生徒は彼のことを呼び捨てにしていた。他の教師に聞かれると叱られるのだが、当の夏宵は何を考えているかよく分からない微笑みを浮かべるだけで、一度も咎めはしなかった。

こちらの作品は同人誌『キラキラ』に収録されています。



掌編小説「夏宵」


 雨で濡れた教員用の駐車場に夏宵の気配を感じて、ああもうそんな時季かと思う。季節の廻りは年々早まり、彼の現れる夏は飛ぶようにやってくる。
 駐車場の横に広がる校庭では昼間、運動会が行われた。娯楽の少ないこの村では、小学校の行事にすら村の人間が総出でやってくる。雨が降ったのは午後いちで、閉会式はとうに済んでいた。両手で数えられるほどしか生徒がいないのだ。
 夏宵はこの学校の教師だった。彼が教室で国語や理科や道徳を教えていたとき、僕は目を細めて黒板の文字を眺めている子どもだった。夏宵はひどく大人で、遠い世界の人間だった。もっとも、今思えば彼は現在の僕より若い。学校を卒業してすぐだったのではないだろうか。
 ある年、長い夏休みの終盤に、僕は夕暮れの学校へ忍び込んだ。宿題に使う絵筆を忘れたのだ。この頃はまだ一学年につき二十人弱の生徒がいた。僕は昇降口から校舎に入り、一年、二年……と学年順に並んだ教室を通り過ぎていった。
 薄暗い廊下は上履きを履かずに済ませた足裏に冷たく染みた。――誰そ彼時の学校にひとりでいると異世界に連れていかれるって、そういえばだれかが話していなかったっけ? ……
 四番目の教室の前を通りがかったところで、中の人影にひゅっと心臓が縮まる。連れていかれる。思わずそう叫びそうになったが、間一髪、窓からの夕日を浴びて影を負う人物が、お化けの類いではなく夏宵なのだと気がついた。
「夏宵、何してるんだ」
 僕たち生徒は彼のことを呼び捨てにしていた。他の教師に聞かれると叱られるのだが、当の夏宵は何を考えているかよく分からない微笑みを浮かべるだけで、一度も咎めはしなかった。
「君こそ、どうしたんだい」
 夏宵は生徒の席に座っていた。去年一年間、僕が座っていた席だ。近眼がひどいので、僕はいつも最前列の真ん中に座る。席替えなどとは無縁だった。
「ポスターを描くのに使う筆を忘れた」
「ああ」
 この頃は九月に運動会があり、地域の掲示板に貼るポスターを描く、というのが、数ある宿題のうちのひとつだった。
 夏宵は、と聞くと、夏休み中でも仕事があるんだよと云う。生徒の机に座る仕事って何、と追及すると、夏宵はいつものよく分からない笑みを浮かべたように思う。本当のところはよく見えていない。
「ふゆどり、」
 夏宵が僕を呼ぶ。ふゆどりは冬禽と書く。書写の時間が嫌いだったのは、このやたらバランスのとりにくい漢字のためだ。
「なに」
「眼鏡を買ってあげようか」
「……なんで?」
 お祖父さんに眼鏡を買ってもらいなさい、とは、歴代の担任から口煩く云われていた。けれどどの教師も頑迷な祖父を説得することはできなかった。父親が買ってくれたのだという眼鏡を不注意で割ってから、ずっと裸眼で過ごしている。父は僕が保育園に上がるころまでは家にいたらしい。母親のことはなにも知らない。
 夏宵は僕の問いには答えなかった。眼鏡を買ってさ、とまるで友人同士のような口調だった。
「それで一緒に、何処か遠くへ行ってしまおうか」
 夏宵の背後で、夕陽が最後の一閃を描いて沈んだ。目を凝らしても、彼の目や鼻や耳は薄暗闇に紛れ、ぼんやりとしている。
いつも穏やかな夏宵に、僕はこのとき確かに恐怖を覚えた。
「お祖父ちゃんが夕飯を作ってくれているから、帰らなくちゃ」
 カラカラの喉から絞り出した言葉に、夏宵は「そう、」と頷いた。
「気をつけてお帰り」
 僕はさよならも言わず廊下を引き返した。早足はすぐに駆け足となった。足をもつれさせながら靴を履いた。夏宵が追ってくるのではないかと思うと、振り返ることはできなかった。
 
 その年はちょうど二百十日に新学期が始まった。校庭に整列して校長の話を聞く間、僕は生真面目な顔をした教師たちの中に夏宵の姿を探した。夏休みのあの一日を最後に、夏宵は煙のように消えてしまった。
 小学校を卒業したのち、同窓会で会う旧友たちに夏宵のこと訊ねても、誰も彼を覚えていなかった。村に小学校教諭として戻ってきたとき、「こうして見ると本当にそっくりね」と校長が目を細めたことだけが、夏宵のいた証に思えた。彼女は僕が三年生のときの担任だった。
 姿は見えなくとも、あれ以来、夏宵は毎夏僕のもとへやってくる。そうして囁くのだ、眼鏡を買ってあげようか、と。
 大人になっても、僕が眼鏡を買うことはなかった。もう一度、眼鏡を買ってあげようか――囁く声に耳を傾けながら、僕はコンタクトレンズで乾いた目をゆっくりと閉じる。細まる視界の中、薄暗闇に懐かしい影が見えた。




販売情報

作品紹介
 なみなみ注がれたコップの牛乳に溺れてしまって遅刻した。
 友人の目から零れる『キラキラ』をコンタクトレンズのように加工して装着してみたり、なみなみ注がれたコップの牛乳に溺れて会社に遅刻したり。息苦しくて、さみしくて。懐かしくて、もう戻れなくて。けれど欠片みたいな希望も、きっと近くに転がっている——。

 そんな日々を集めた表題作ほか、幼いころに雪女と暮らした女の幻影を描く「銀色」、幽霊となった兄に触れたい弟の「とおくはなれ、ひとつ」等、ゆくあてのないさみしさをかかえた人へ贈る二十の掌篇。

値段・ページ数・判型

700円(イベント価格)/86ページ/文庫判

購入方法

年2回の文学フリマ東京を中心に頒布。
販売サークル:七つ森舎(ななつもりしゃ)

通販

下記サイトにて販売中です。
(イベント時とは価格が異なります)

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