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小説同人誌『孕む』サンプル

少年に、狂う。

四方を山に囲まれた小さな村に父と二人で太一が越してきたのは、水を入れた田が一面に青空を映し出すより前の、ある年の初夏のことだった。
「あすこの家は呪われているから、関わったらだめなんじゃ」
四宮家の末の子、馨は、太一を産んですぐに蒸発したという母に、似ているように思えた……。

少年に、狂う。少年が、狂う。四年に一度の祭りの晩、誰も知らぬ間に起きた、おぞましい出来事とは──。


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『孕む』表紙画像


※実際の本文には段落ごとの空行はありません。


 四方を山に囲まれた小さな村に父と二人で太一が越してきたのは、水を入れた田が一面に青空を映し出すより前の、ある年の初夏のことだった。

 村は余所者が煙たがられるありがちな閉鎖的な社会だったにも関わらず、一帯の田植えが無事に済み、学校が夏休みに入る頃には、太一は同級生の中で中心的な人物となっていた。

 というのは、転校早々にちょっかいを出してきた上級生を、太一が躊躇いなく返り討ちにしたからに他ならない。鼻の骨を折られ全治六週間となった上級生は周囲が扱いに困っていた厄介者だったため、遠向きに余所者を見ていた周囲は、一斉に掌を返し熱狂した。

 そうなれば、最上級生と比べても引けを取らない恵まれた体躯や、自然に周囲を圧する立ち居振る舞い、太一のそこそこに整った顔立ち、都会者らしい癖のない話し方まで、一転して憧れの要素へと変わるのだった。

 ただしそれは単純な男子の話で、女子は反対に、事件以来ますます太一を遠ざけた。太一の暴力に対する抵抗感の欠如と、女子たちに対する冷淡な振る舞いが理由である。とはいえ、その態度に却って密やかなあこがれを胸に宿す者も少なくはなかった。


 日曜の夕方、太一が家の手伝いを終えた同級生たちと連れ立って外を歩いていると、田圃を二つ挟んだ向こうの道に、右の前輪が水路に落ちかかった外国車があった。運転手らしき男と近所の農家の者たちがそれを取り囲み、少し離れた場所で、目に鮮やかな着物姿の女が三人、固まるようにして様子を見守っている。

「猿でも避けそこなったんじゃろ」

 車は鎮守の杜の脇で止まっている。あそこから動物でも飛び出してきたのだろう、というのが、太一の同級生・清の弁だった。

 運転手が社内に戻る。野良着姿の男たちが田へ降り、下から車を押し上げていく。

「太一、猿は見たことあるか?」

「ない」

「鹿は? 狸は?」

「死体なら、この前道端で見かけた」

 やっぱり都会は動物なんていないんじゃな、と感心した様子で清が頷く。清は太一が上級生を殴る前から声をかけてきたほとんど唯一の同級生である。事件後は信奉者の筆頭だ。

 清は太一を都会者扱いするが、たまたま転校前に住んでいたところがそうであったというだけで、別に根っからの都会育ちというわけではなかった。太一の父は教師だったが、どの学校も長くは続かず、様々な土地を転々としている。清たち同級生は訛りがないと思っている太一の話し方も、実のところは、様々な地域の癖が混じっているのだった。

 数人がかりで押し上げられた車が道に戻る。ドアを開けて運転手に主人らを呼んだ。着物姿の女たちが小さな歩幅で車に寄っていく。

 寄り添い固まっていた影がばらけ、太一は三人だと思っていたのが、四人であるのを知った。

 太一らより上、おそらく十代後半から二十代前半らしき三人の娘に守られるようにして、一人年の離れた幼い子が歩いている。

 一体どこへ行くからそのような恰好が必要になるのか、大輪の牡丹をあしらった華やかな黒地の振袖に、金銀の鱗文様の帯を締めている。小さな体には幾分大人びた組み合わせに思われたが、つややかな黒髪の一部だけを編み、あとは流れるままにしているところは子どもらしかった。

「末の子が出てくるのは珍しいの」

「どこの家の子どもだ?」

 清の呟きに太一が言葉を返すと、周りの少年らの顔に一瞬の緊張が走った。

 鼻の骨を折られた上級生が、どうやって太一を怒らせたのかを、その場にいる者は全員知っている。子の忘れ物を届けに学校までやって来た余所の母親に話しかけられた太一が赤面してまともに受け答えできないでいるのを、大仰にからかったのだ。

 以来、太一の周りでは女の話題自体がタブーとなっている。

 とはいえ話題を振ってきたのは太一である。同級生らの中で、太一のどこにあるのかわからない逆鱗に触れる恐怖よりも、情報を提供して認められたい欲が勝ったようで、「四宮家じゃ」と一人が言うのを皮切りに、競うように話し始めた。

「このあたり一体の土地を持つ大地主じゃ」「ご当主夫婦がだいぶ昔に亡くなられて、今は子どもらと先代で暮らしとる」「男の子がおらんから、一番上の娘が婿を取るって」「山の上のお屋敷に住んじょる」太一は同級生が指さした方角に目をやる。山の中腹、木々の合間から艶々とした瓦屋根が張り出している。

「あすこの家は呪われているから、関わったらだめなんじゃ」

「おいっ」

 同級生の言葉を、清が遮る。

「滅多なことを言うな」

「村の大人はみんな言ってる」

 清に睨まれた少年は口をつぐんだが、他の子どもらは却って勢いを増して話を続けた。

「山の神様に呪われてるんだ」

「だから四宮では男の児は育たないんだって」

「先代も先々代も婿を取って繋いでるんだ」

 声が届くのを心配しているのか、清が車の方へちらちらと視線をやる。そんな空気ではむしろ気づかれないものも気づかせるだろう、と太一は思った。清は思慮深く信頼できる少年だが、度胸と統率力が不足しているのが玉に瑕だった。

 はあ、と太一は聞えよがしに大きなため息をつつく。それを合図に、周りはぴたりと口を閉ざした。

「さ、はやく行かんと。山崎のばあちゃんは最近店じまいが早いからの」

 ぱん、と両手を合わせ、清が場の雰囲気を仕切り直す。「そうじゃそうじゃ」「おい、お前いくら持ってきた?」「俺は……」少年らが止まっていた足を動かしだす。最後尾についた清は、隣の太一に小さな仕草で礼を伝えた。太一も無言で頷く。

「見たことのない顔だが」

 清にだけ聞こえるよう、声を落として太一は言った。太一が目線で示した先を確認して、「ああ」と清も小さな声で返す。

 田圃の向こうでは、他の娘に支えられながら、少女が車に乗り込むところだった。年頃は自分たちとさほど変わらなく見えるが、太一は学校で彼女を見た記憶がなかった。

「末の子は体が弱くてほとんど屋敷に閉じこもりっきりじゃ。学校にも通っとらん」

「名前は」

「確か馨じゃったと思うが」

「……ふうん」

 末の子が乗車させた姉が助手席に回る。太一が車の横を通り過ぎようとしたとき、後部座席の窓が下げられた。

 車の中から、少女が太一たちの方に顔を向ける。

 涼やかな奥二重と長いまつ毛に縁取られた瞳が、確かに太一を捉えた。存外きつめの顔立ちは、けれど、彼女が柔らかに目を細め、ふわりと桜色の小さく厚い唇を綻ばせるなり印象が一変する。

「おおい、清」

 他の子どもに呼ばれ、清が太一の隣を離れる。太一の足は止まっていた。車は砂埃を立てて去っていった。



 その晩、太一は蒲団に潜ると、黒の振り袖姿を胸の内で反芻した。

 昼間見た少女は、太一を産んですぐに蒸発したという母に、似ているように思えた。

 太一は写真でしか母の姿を見たことがない。昔、父の箪笥から見つけた一葉に映る母は、磨き上げた硝子玉を嵌め込んだような丸い大きな瞳をしていて、白黒の画でもはっきりとわかる真っ赤な紅を薄い唇に引いていた。飾り立てた頭を支えるには細すぎる白い首をかしげ、少女のようなあどけない顔で、不似合いな煙管を持っていた。

 太一の母親は芸者だった。堅実一筋の教師だった父は文字通り母に狂い、人生を棒に振った。出会いからまもなく母は妊娠し、父は一介の教師に払えるはずもない身請け金を裕福な実家に頼った。資金を出すのと引き換えに三男である父は勘当を言い渡され、肝心の妻には一年余りで逃げられた。

 それでも彼の目は覚めなかった。いくつかやってきた見合いの話もすべて断り、消えた妻を探しているつもりなのか、住処を転々とし続けた。

 父の箪笥から写真を抜いたことはすぐにばれ、父は写真とともに眠っていた太一を蒲団から引きずり出した。太一は散々打たれ、母の写真を取り上げられた。父にとって妻は女神であり、その写真を盜むのは、たとえ幼い息子のしたことであっても、重大な罪であると言わんばかりの剣幕だったのを、今でも太一ははっきりと覚えている。

 やがて眠りに落ちた太一は夢を見た。

 太一は大きな屋敷の庭に立っている。屋敷の角の部屋が目の前にあり、誰かが出入りしたのか、障子がほんの少しだけ開いている。昏い部屋の中で、ひらり、なにかが翻るのが見えた気がして、太一は歩を進めた。声が聞こえる。あまりに幽かなその声は、太一の踏む砂利の音に紛れて聴き取れない。足を止め、耳を澄ます。子守唄だ。若い女が、子守唄を歌っている。

 細長い暗闇の中でひらり、再びなにか白いものが翻る。それは赤子を抱いて揺れる女の着物の袖だった。起きたばかりなのか、寝巻き姿で、髪もゆるく結ばれているだけの格好をしている。

 女は太一に気がつかない。濡れ縁の前で太一は立ち尽くす。赤子をあやし、女は揺れる。太一はただただ息を潜めている。

 いつまでそうしていただろうか、ふいに女が開いている障子に気づく。太一が息を呑んだとき、横殴りの風に乗った薄紅の花弁が視界いっぱいに流れてきて、女と太一を隔てた。



 それから稲穂が実り黄金の海が波打つ秋が来て、全てが灰色に染まる冬が来ても、馨の姿を見ることはなかった。四宮家の車を見ることはあっても、乗っているのは先代当主である馨の祖母か姉、あるいは長女と結婚したばかりの婿養子だけだった。

 太一は時折山の上の屋敷を見上げた。瓦屋根にはいつまでも雪が乗っていた。落としても落としても、屋根には雪が降り続けた。

 やがて待ち焦がれた春が来た。また夏が来て、秋が去り、冬がいつまでも村に留まった。太一はいつ父が住処を変えると言い出すか警戒していたが、父も長い放浪に疲れたのか、今回ばかりはなかなか引っ越しを切り出さなかった。

 太一が村に来てから、二度目の春を迎えた。村はにわかに浮き足だった。待ち焦がれていた季節が到来したからというだけではない、特別な理由があった。

「今年は四年に一度の祭りがあるんじゃ。神輿を担いで村中を回って、最後にあの山の上の奥宮まで登る」

 四宮家の屋敷が建つ山の頂きを、清が指差す。

 花曇の空を背景にした山はまだ冬の名残を残して薄っすらと白かったが、四宮の屋根は艶々とした瓦を見せていた。

「それが済んだら四宮の家の庭で宴会じゃ。村中の人間が集まって、たらふくご馳走が食う」

「あの家には関わらないほうがいいんじゃなかったのか」

「この祭りは別じゃ。むしろここでちゃんと参加して祈りを捧げないと、神さんの怒りを買うって言われてる」

 代々の四宮家の男児を食い殺してきた神じゃ、太一も絶対に参加するんじゃぞ。清はそう念を押した。

 仕事を終えて帰宅した父に太一が聞くと、父の方でも祭りの話は把握していた。余所者は除け者にされるかと思ったが、本当に総出でやるようだ、と面倒ごとの嫌いな父が食事の席でため息をつく。

 これを機に村を出ると言い出すのではと、太一は一瞬ひやりとしたが、父は黙々と食事の手を進めるだけだった。ほっとして残りの食事をかきこむ。今日の主菜はふきのとうの天ぷらだった。玄関に誰かが置いていったもので、太一の父がふき味噌と天ぷらを作った。父は愛想のない割に周囲に好かれやすい。太一も確実にその血を継いでいた。

「俺は学校の連中と行くから」

 食器を重ねて流しに運ぶ。春の夜、まだ蛇口から出る水はひどく冷たい。指が凍りつく前に、と手早く皿を片付ける。「ご機嫌だな」何を見てそう思うのか、父がそう言った。(続)




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400円(イベント価格)/30ページ/文庫判

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