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INFPでHSP傾向のある自分、どう生きる?

と、自分の属性めいたことを書きましたが、結局のところ自分がどう生きるのか、改めて書いてみたいと思います。


前書きとしての注意事項

MBTIタイプ論からのINFP、HSP自己測定上のHSPは、私の性格のすべてを表しているものではありません。INFP、HSPにもさまざまなタイプ、濃さがありますので、結局私は私です。『INFP、HSPの傾向がある』くらいに捉えていただくのが良いと思います。また、MBTIタイプ論もHSP測定も言っていますが、それは人にレッテルを張るものではなく、私という人間の一番わかりにくく私としても説明しにくい部分を分かりやすくシェアできる可能性が高い定義として使わせていただいています。

ありきたりな結論ですが…

やっぱり自分のままで生きるのが一番だと思います。

なので、それをしていこうと思っています。

どうしてそれをするのが私にとってチャレンジングなことなのか?

そもそも、私にとって「自分のまま」とは一体何なのか?

「自分のまま」が達成される条件とは?

ひとつずつ文章にしてみようと思います。


なぜ、「自分のままで生きる(社会参加する)」が私にとってチャレンジングなことなのか?

こう言っている、ということは、現状私が「自分のままで社会参加できていない」ということを指します。

もっと言えば、「自分の良いところを発揮できていない」と言えると思います。なぜ発揮できないのか。大雑把に3つの理由にまとめてみます。

1.未熟だったから

2.私の在り方が社会のメインストリームに合わない
(上記タイプ傾向のある人ではない人たちが現代社会の基盤をつくったから)

3.合わないのに合わせようとする癖があるから

他にもたくさんの要素がありますが、今回はこの3つに絞って話を進めたいと思います。

※今回、「社会」という言葉を多用します。ここで言う社会とは、私のイメージによるものなので正しいかどうかもわかりません。日本という国の中において私が体験したこと、もしくはそれをベースにしたイメージで、日本に住む人がつくっているコミュニティとそこにおける人々の活動を指します。

1.未熟だったから


単純に、自分の現状と不満を他者はおろか自分自身にもうまく伝えられていなかった未熟さがあったと思います。

自分が何となく社会の中で居心地が良くない場合が多いのですが、なぜ居心地が良くないのか説明することが難しかったです。きっと説明できていたら誰かに助けを求められたでしょう。

説明することが難しかったのには2つの理由があります。ひとつは社会の中で居心地が良くないのは自分の性質がおかしいからだと思い込んでいたから、もうひとつは自分がおかしいのでその言い分に耳を傾けてくれる人はいないだろうと思い込んでいたから。

今やっと、私がおかしいわけではなく、社会のベースになっていて人々でもほとんど語られない社会の性質や仕組みが私の性質に合っていない部分がある、そしてそれを我慢することがとてもキツい、ということが分かりました。

そしてそれによって、なぜ私の性質が合わないのか、合わない場合どう対応していったらいいかが見えてくるように思えます。

2.私の在り方が今の(もしくは少し以前の?)社会のメインストリームに合わない

私の在り方とはどういうものかというと簡単には
・内向型である
・直感型である
・共感型である

現代社会のメインストリームはというと、簡単に言えば
・外向型がうまくいく仕組みである
・実行力が求められる(直感型には不向き)
・共感性による疲弊を考慮しない

本当はもっとたくさんの要素がありますが、今日はこのくらいにします。

そして、私の在り方にあった場所ももちろんあるであろうことも知っています。

つまりは、私は、私の性質に合っていないメインストリーム(のように私が見ているもの)から距離を取る必要があるということです。

3.合わないのに合わせようとする癖があるから

1と2を見ていて重なる部分もありますが、結局はこの合わない流れに合わせようとして息苦しいということです。

では合わせなければいいのでしょうが、それがなかなかできない。

もうそれは癖になっているんですね。

合わせようとしてしまうのはいろいろな理由があります。私が共感型で、相手のペースやら考え方やらに合わせてしまいがちなところがもともとあること、合わせないで行動する成功イメージ(やロールモデルなど)がない、むしろ合わせないことで排除の対象となるのが怖い、調和型なので調和が崩れるのが怖いなど。

自分の無意識のところで、「社会に合わせた方が、息苦しいが合わせないリスクに比べるとまだマシ」と思っていた部分があったようです。

以上の3つの理由から、「自分のままで社会参加する」「自分を発揮する」ということが私にとって難しく、チャレンジングであるのかなと思います。


そもそも、私にとって「自分のまま」とは一体何なのか?

上記の内容に則して一言で言うと、

社会のメインストリームに合わせずに、極度の我慢やストレスを感じることなく自分のサイクルを加速させられる状態

と言えると思います(もちろんある程度の我慢やストレスは人間として必要ですが、過度にならないということです)。

いま改めて人生を振り返って「自分のまま」で社会と接したことはほとんどないように思います。それを嘆く一方で、やはり一定量「武装した自分」も社会適応の中で必要です。その「一定量」が度を越えてしまうといろいろと不備が起こってきます。つまり、今までの私は度を越えて武装していて疲れ切ってしまっていた部分があるので、適度に武装もしつつ無理なく社会参加するために、自分の性質に応じた社会参加の方法を考えたいのです。

まず、現在の自分の性質(未熟さも含め)は、
・内向型
(自分の中で沸き起こること、感動や思考、何かを味わっているときに静かに感じることなどを楽しみ、安心感と充実感を得る。他人と接するのは好きだが、ものすごく消耗する。)
・直感型
(事象の広範囲、全体を捉えようとする、物事の文脈的なつながりや意味などに興味を持つ。想像力があるが、それを現実に落とし込むのは得意ではなく努力が必要。ブレスト大好き。)
・リベラルさを拒否する方と接するのが嫌い
(これは私自身に課題があり、保守的な考え方を受け入れつつ自分が考えるリベラルさを提示・主張・議論する力がないので、まだ逃げ回っていたい状態です。なのでその点で幼い私はまず近い価値観の方と時間を共有したい欲求があります。)

なので、これからあまりに離れた環境だと辛くなります。
いままで所属してきたコミュニティでは

・外向型優位
(出世、評判などは外向型の方が優位に働く。そもそもコミュニティ(もっと言えば経済活動)が理想とするあり方が外向型をベースにしたものである。後述します。)
・実行力に価値を置く
(長期的な目標や新しいアイディアよりも、今日何をしたかが重要。長期的な目標やアイディアを必要とする場面は下級社員には与えられなかった。)
・保守的な固定観念の押し付け
(前述したとおり、これと対峙する力が私にない。加えて、保守的な固定観念をお持ちの方にアウフヘーベンの考え方もないことが多いため、議論の機会もないに等しい。)
などなど。

このような環境が多かったことから息苦しかったわけなのですが、今までの私はこれを言語化できず「なんとなく息苦しいが、体力でカバーしつつ乗り切ろう」みたいなスタンスでした。

もしくは無意識にその現状を言語化することすらタブーのように感じていたのかもしれません。おそらくその深層心理には以下のようなものがあります。
・社会は絶対的なもので、私がその枠組みから外れることはできない
・枠組みから外れた行動をすると生き残れない
・これは当たり前のことで変わらない
・我慢は美徳と教えられた
などなど。

この「体力でカバーしつつ」というのが曲者で、当時は若かったからよかったのですが、今考えると体力代わりと会った私は相当な無理をしていたと思います。体力があったからと、もともと身体的な感覚に疎い性質なので無理していたことを「無理している」と実感することもできなかったのかもしれません。体力が落ちてきていて中年層に差し掛かっている今だからこそ、その無理はやめよう、それは「自分のまま」ではない、と思うに至りました。

「自分のまま」で力が発揮できそうな条件

上記の内容から、私は社会に対して明確に、「自分のまま」が保たれる条件を提示する必要があると思いました。

なので、その条件を書き出してみます。実現が難しいと思うことでも、書くのは自由だと思うのでとにかく書きます。
・接する他人は1日2~3人
・必ず一人で行動する時間が1時間以上必要
・苦手な単調作業や事務処理をするなら1日1~2時間(頑張って3時間)
・バランスよくマルチタスクの方が良い(デスクワークとミーティングと外出しての仕事、など)
・改善に関して柔軟に議論できる環境だとうれしい
・このような性質に理解のある方と働く(共感やいたわりが必要)
・目指したい理想や価値観に関して共感できる
・違和感を感じたらそれを伝えられる術がある(相談窓口や相談しやすい人がいる、ちゃんと耳を傾けてくれる人がいるなど)

こう書き出してみると、自分が必要とする環境が具体的にわかっていいですね。

さらに、このような環境が私の周りにあるかというと、ぱっと見なかなかないかなという印象、また、こういった場所が多数派ではないかなという印象です。

その印象からも、上記の内容をすべて満たす場所を想像すると「そんな仕事場あるわけない。。」「実現したかったら自分でつくるしかない」的な考えが浮かんできます。

これからはしばらく雇われる立場にはなると思うので(すぐに自立して働けるとは思えないので。。)、いくつかの項目は目をつむる、もしくは社内で解決しようとせずに他に助けを求めたりして、なるべく自分に合った環境に自分が仕立てていくようにしたいとは思います。

ですが、最終的には妥協せずに、自分の力が発揮できる環境をつくっていきたいなと思います。


背中を押してくれた言葉

最近の私がまた文章を綴っていこうと思ったきっかけがあります。私の背中を押してくれた言葉です。

その言葉とはざっくり言うと
「今の社会は内向性の人向きでない。」
ということなのです。

つまり私が息苦しくて当たり前で、自分が楽に生きるなら内向性のままで社会参加する方法を模索する必要がある、と聞いて安心したんです。

今まで、自分向きでないやり方をしていて苦しかった。
でもそれをしなきゃいけないんだと思い込んでいた。
それが苦しかったので、それをやめていいと聞いてほっとしました。

もっと詳しく言うと、
「貨幣経済は基本的に外向型優位にできている。貨幣の交換はエネルギーの交換と同意で、エネルギーを交換することが呼吸をするように自然な外向型がつくった仕組みだから。エネルギーを留めて自分で感じる内向型には不向きな仕組み」
※ここで言う外向型と内向型はユング心理学の用語で一般的に使われている外向的や内向的の言葉とは意味が違います

といった感じです。
とても納得しました。この言葉のおかげで、確かに私はこのエネルギー交換が苦手だ、やるときはすごく体力を消耗すると思っていたことに気がつきました。


こんなに簡潔で分かりやすく根拠を示しながら、私の社会や経済活動に関するもやもやを言語化してもらえていて、本当にうれしいと感じます。

以前、私はnote「100分で名著、資本論を見て」の冒頭で「今の社会の仕組みは私の性質に合っていない」というようなことを書きました。

(実際は、私は”資本主義社会の枠組みの中で””他者からの賞賛や理解”がある像になろうとして疲れてしまう、というように書いていました。今読み返すと回りくどい書き方…これにも理由があるので、いつかお話しできたらと)

社会の仕組み(特に経済活動分野において)が自分の性質に合っていないので、生きているのにしんどさを感じ続けているのは当然です。さらに言えば、私はこの”社会の仕組み”は絶対的なもので、私はそれに従わなければならないと思い込んでいました。自分は社会活動の奴隷である、それで一生を終えるのだ、という思い込みです。そして、それは「思い込み」であって真実や摂理と言った類のものではなかもしれないので、自分に合った生き方、社会への参加の仕方もあるのかもしれないということを感じて書いた文章です。

でも、上記の言葉と出会って、またその言葉に関する説明や裏付けがとても分かりやすく明確だったので、自分が感じていた「合わないしんどさ」がよりはっきりしてうれしかったのです。

そして、これからは、現在の外向型優位の社会構造を理解しながらも、それの奴隷とならずに、うまく自分の性質でやっていく方法を模索したいと思いました。

この模索の旅も、文章にしていけたらと思っています。

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