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自己紹介 -私がブランドを始めるまで-

みなさま初めまして、名嘉地明秀と申します。

私はAkihide Nakachiという自身が始めた女性服ブランドのデザイナーをしています。


自身の話や、日々感じたことなどを発信できたらと思いnoteを始めてみました。

まずは自己紹介として、私がどうして服を好きになりブランドを始めるに至ったかの話をしていきたいと思います。

少々長いですがお付き合いください。



・内気な「普通人」とスポーツの出会い

・内気な幼少期

私は1990年、兵庫県で生まれ高校までを神戸で過ごしました。

幼少時代の私はコミュニケーションをとるのが苦手で、授業では手もあげられない内気な生徒でした。何事も考えすぎてしまう性格で、上手くいかないことも多々ありました。

「普通人」という漫画(全てが標準で平均な主人公の物語)をこの頃に読んだことで、主人公と重なる部分が多く自身を普通の人間だと思うようになりました。人気者を囲む輪のさらに外にいるような目立たない私は、特技や脚光を浴びる人への羨ましさと憧れを抱いていました。


・卓球で広がった世界

中学では卓球部に入部し、学外でも習い始めます。全国大会に出場するようなレベルの高い人が通うその場所で、実力のある人が持つ意識の高さや、とてつもない努力を知ることができたのは幸運だったと思います。

この学外の人との関わりで社交的になり、上達する上で基礎の大切さを学び、そしてハードな練習が自分の中で当たり前になり、ネガティブで内向的だった性格が少しずつ変化していきました。

高校でも卓球部に入部しますが、部員が強い年に当たったことで団体戦のレギュラー争いが厳しく、2年、3年と上がるごとに上手い後輩が入ってきたことや実力の伸び悩みから小学生からハマっていた卓球への熱は徐々に落ち着いていきました。


・見えない努力とギリギリの合格

そして高校といえば大学受験、一応進学校だったので進学は当たり前で大学を目指し勉強していました。中でも印象的だったのがクラスではふざけてまじめなそぶりを一切見せない同級生が、陰では勉強をしていて試験では良い成績を取るという光景でした。努力を人に見せない姿がとてもかっこよく、自分もこうなりたいと憧れました。

 大学受験で私が目指していたのは心理学を学べる学部で、人に興味があったことと、身近な人が悩んでいた人間関係の問題を解消するためカウンセラーを目指すことが理由でした。

目指していた大学には落ちましたが、卒業式後の後期試験で最後の最後になんとか心理学を学ぶことのできる国立の徳島大学に受かることができ一人暮らしが始まります。


・新たなスポーツと目標の消失

・部活に入ったど素人

大学では卓球を続けずに新たなスポーツを始めようと探していたところ、初めに見学に訪れたフットサル部に入部してフットサルにハマります。

ど素人状態でサークルではなく部活に入部したため練習にもついていけず当初は大変な思いをしましたが、先輩に基礎から教えてもらい地道に必死に練習を続けたことで上達することが楽しくて仕方ありませんでした。卓球とは全く勝手の違うスポーツでしたが、団体競技のチームワークやコミュニケーションの大切さを学び、その楽しさがあったからこそ引退まで続けることができました。


・適正

大学での心理学の勉強は2年次から少しずつ専門的になり始め、あるとき講義で事件のドキュメンタリーを見ることになりました。しかしそれは残酷で刺激が強く、私にはとても見ていられるものではありませんでした。

また別の講義ではカウンセラーの向き不向きの話があり、それは患者の話を自分のこととして真に受けてしまう人、つまり感受性の豊かすぎる人は向いていないというものでした。

これによってカウンセラーには向いていないと少しずつ感じるようになり、大学の2年目も終わりに近づいてきたこのとき、将来について改めてちゃんと考え始めるようになりました。

目標を改めて決めなければと探した時、浮かんだのが当時興味を持ち始めていた洋服でした。


・おしゃれとは?理解できないところから

・ファッションという言葉への苦手意識

そもそも私が服に興味を持ち出したのは大学生になってからと遅く、それまではおしゃれがなにかもわからずに友人の言うセレクトショップやビームスが何を指すかも知りませんでした。ファッションという理解できない言葉に抵抗を感じては自分とは違う世界のものとして割り切ることで目を背けていました。

しかし制服がなくなったことでそれまで何をするにも人目を気にして行動していた私が、容姿を気にしなければならないのは当然でした。

そこでまず私が服を知るために初めにしたことはファッション雑誌を読むことでした。ストリートジャックやチョキチョキといった徳島でも手に入る雑誌を隅から隅まで目を通し、初めて聞くブランドやショップのクレジットから価格まで全て目を通しました。アイテムの価格帯を把握し、コーディネートの解説をしっかりと読み、なぜこれがお洒落なのかを分析しました。(ただ全く知識もない状態で読み込む雑誌はもはや楽しむというより勉強のようでした...。)


・もはや宇宙人との遭遇、大阪のアメ村

ある日mixiという当時流行っていたSNSから友達申請の通知が来ます。それが大阪のアメ村で主に活動していた服好きな学生によるファッション団体からの申請でした。

その人たちの着こなしは奇抜、派手、ごちゃ混ぜ、まさにこんな言葉がぴったりの雑誌にあるお手本とは真逆で、雑誌からでしか情報を得ていなかった私にとって衝撃的でした。

しかし私は自由で堂々とした彼らに惹かれ、ブログを読み、着ている服のブランドやよく行くショップをメモしては神戸に帰省した時にアメ村に足を運ぶようになりました。

中でもKAKAVAKAという古着とユーズドのブランドを扱っているショップが好きでよく行っていました。白を基調としたカラフルな内装に大きな音のBGM、そしてそれらに負けない派手な服たちが並んでいる光景に初めて行ったときは衝撃を受けました。

そういったショップで服を買っては着るようになると、人からの視線をより感じるようになりました。それでもとがったショップのスタッフさんや、そこで知り合う個性的な人たちとの関りから様々な価値観があることを知り、多くの人から理解してもらうことよりも私にとって自由に好きな服を着ることはずっと大切なことでした。


・これからのために

こうして服にハマっていった私の目標が、カウンセラーから服に関わることへと変わりました。急激に服への熱が高まっていた私は大学中退を考えていましたが、両親との話し合いの末に大学卒業後に専門学校へ進むことになります。

その時は大学2年の終わり、卒業までは残り2年もありました。

大学3年になり、なんとかまず服に関わりたいという思いから古着屋でバイトを始めます。そして翌年は一人暮らしを辞めて実家の神戸に帰り、授業のある週1だけ徳島の大学に通うという生活に変えたことで神戸のセレクトショップで働くようになりました。

これら2年間のバイトと個性的な様々なショップに通ったことで多くのブランドを知り、人と出会い、より一層服が好きになりました。


・目指すべきこと

またファッションを知るため本を読んだり、講演会に足を運びもしました。中でも記憶に残っているのは神戸ファッション美術館での元イッセイミヤケのデザイナー藤原大さんの講演会に伺ったときのことです。

講演が終わり、最後の質疑応答で手を挙げ漠然とデザイナーになりたかった私はどうしたらデザイナーになれるかと勇気を出して質問しました。すると藤原大さんは丁寧に答えてくださった上で、優しい口調で「しっかりとした目標がある君なら大丈夫、頑張って」と応援してくださったのです。

恥ずかしながら藤原大さんのことはそれまで存じていなかったのですが、講演の内容がとても素晴らしく既に尊敬と感動の気持ちを抱いていた私にとって、その後に頂いたお言葉は一生忘れることができないものとなりました。

こうして徐々にデザイナーへの憧れが増す反面、消費者やバイトで経験した売り手でしかファッションを捉えられない自分がいるのではないかと思うようにもなりました。デザイナーはそもそも見てる世界が違うのではないかと徐々に感じ始め、作り手の視点を知ろうと目指す目標をデザイナーへと決めました。


・作ることの楽しさ

・玉留めすらできなかったのが

大学を卒業し上京した私は、文化服装学院に入学します。選んだのは服飾研究科という科で、社会人や大学を経て学びにくる人のための学科のため通常2年の内容を1年に凝縮するという忙しい学科でした。常に課題に追われていましたが、その甲斐もあり玉留めすらできなかった自分が1年を終えるころには大体の服を縫えるようにまでなっていました。

また自分が服を着ることでファッションを理解しようしていたのでメンズ服を作ることが当初の目的でしたが、学校で学ぶ基礎が女性服からだったため課題ではウィメンズをずっと制作していました。


・twitterから始まったインターン

そんな学校生活とは別に、学外ではインターンをしていました。ブランドは大学の時から気になっていたEtw.vonnguetというドメスティックブランドです。

Twitterでブランドをフォローしていたところインターン募集のツイートが流れてきたので下のように呟いたところ、たまたまエゴサーチされたのかデザイナーから「来い!」とだけ急にリプライが来ました。


数日後にはアトリエに行くことになり、その日から仕事を振られて突然のインターンが始まりました。

初めてアトリエに行ってデザイナーと面と向かって話をしたとき、将来はデザイナーになりますと言い切ったのは懐かしいことです。いつからか自分は口先だけの人間には絶対にならないと決めていたので、恥ずかしいほどの夢でも人に言うようになっていました

アトリエでの作業や、渋フェスで行ったショーの裏方などここでの経験は結果的に文化での1年よりも間違いなく学びになりました。


・勝手に集大成

こんな1年を送っていたため、就活などできるはずもなく卒業ではなく進学の道を選びます。

そして進学の前の春休みでは1年の集大成を作るため、自分が本当に作りたいもの作るという課題を自分で設定し1ヶ月必死に制作しました。さらにはインターン先で知り合ったモデルやフォトグラファーに頼み初めて作品撮りを行いました。

学生に着てもらい発表する課題とは違い、初めてプロのモデルに着てもらった作品撮りは刺激的なものでその美しさに感動したことがきっかけとなりウィメンズを作っていくことを決めました。そしてこのとき必死に作った1着が後々活きてくることになります。


・考えすぎる性格の活かし方

4月になり文化での2年目を過ごしますが、これまで2年間の内容を凝縮して学んだので、通常の3年次への編入としてデザイン専攻に進みました。

しかしこのコースではデザインを学ぶのではなく絵を描く時間が多いだけで肝心の発想方法などは学べなかったため、興味のあった人の心情やコミュニケーションといった見えないものを落とし込むための自分なりの方法を模索しました。

例えば、最初の課題で取り組んだ"パーソナルスペース"という自他の心の距離間をテーマとしたプロセスの例を挙げてみます。

見えないものをいかに具現化していくかというのが課題なのですが、そのときは自分と相手の親密度によって決まる4種類の距離(0-45,45-120,120-360,360-)に着目し、その数字を拾い長さに布を切ることでパーツを作り、縫い合わせるといった方法で具体的な服の形にまで持って行こうと考えました。

実際は別の方法での制作に至ったのですが、こういったプロセスを編み出すことに対してこれまでの考え過ぎてしまうような自分のマイナスともいえた性格がプラスになり、自分の強みとして思い始めることができるようになりました。


・2つ目のインターン先

またyou ozekiというブランドで週1程度でしたがインターン行いました。

前回のインターンとは環境から作り方まで全く違い、デザイナーからいろんな話を聞けたことで服作り以外の部分の多くのことを学ばせて頂きました。

中でもインターン生だった自分にもお金をくれたことは大きな学びでした。これはもらった人間がどう感じるか、モチベーションや責任感にどう繋がるかを身をもって知ることができたからです。


・2つのコレクションブランドへの就職

・パリコレのアトリエで働けたこと

そして始めた就職活動は専門職を中心に幅広く応募しましたが尽く落ちていました。しかしこの後、3月半ばの卒業式が終わった後に出た求人に応募したところなんと採用をされました。それが有名なあのブランドです。

私からすれば一発逆転の気分だったので採用を聞いたときはさすがに震えました。

このときの面接では作品を持参しなければならなかったのですが、ここで持って行ったのが1年目の集大成として作った服でした。パタンナーチーフがこの服を見て「1年でこれ作ったんだ」といった言葉を聞いたとき、あのとき苦労して作っておいて本当によかったなと感じました。

また同期や近い後輩は、パリのコレクションブランドで働いたりインターンをしていたりと経歴のある人ばかりだった中で、職歴もなく新卒で入れたのはものすごく幸運でした。

この最後の最後に受かるという状況は大学受験と被るのですが、あきらめなければほんとに何があるかわからないなと感じました。

そこでの配属はメンズブランドでパタンナーアシスタントとして働き、短い間でしたがパタンナーの仕事への姿勢やブランドの規模や環境を知れたことはとても意味のあることでした。

なによりここが自分にとって初めての会社であり、ハードな環境が今後の服を作っていくうえで自分の基準となったことは1番よかったことかもしれません。


・違う視点で見ることができたもう一つのブランド

退職後はいつかブランドを始めるという目標があったので、次の仕事は改めて現場を知るためにと販売職につきました。ここがもう一つのコレクションブランドです。

大阪の店舗への配属だったため、東京から実家の神戸へと帰り、大阪へと通う生活になりました。

ここでは店舗に所属しての仕事のため前職とは全く違う部分を見ることができ、中でもデザイナーの感覚、意識共有のための取り組みをいくつか見られたのは勉強になりました。また店舗に立ち、お客様と関わることでどういった方が店に足を運び、商品を買っていくのかを実際に知ることができました。


いくつかのタイミングが重なったことで、自身のブランドを始めるために退職を決め東京に再び戻ってきました。

この後もいくつか仕事を転々としながら、続けていた制作がまとまってきたタイミングで発表することを決め、スタートしたのがAW2018「you are(were) here」の2人で着る服です。


このコレクションが後にインタビュー記事となりi-D USに載っています。
こちら英語ですがお時間あれば併せてお読みください。


・最後に

以上が服を好きになり、ブランドを始めるまでの話になります。


時々耳にする言葉に気骨という言葉がありますが、これは信念を持ち、どんな障害にも屈服しない強い心を指す言葉です。

振り返ると私の気骨を作り上げたのはこれまでの経験と、そこから学び考えだした価値観だったと思います。

これらの幼い頃からの出来事や学びのすべてが今に繋がっていました。

そして私は常に何かに熱中していました。卓球、フットサル、ファッションと熱中するたびに新たな経験をし、人と出会い、世界を広げてきました。

ただスポーツと違い、ファッションには勝ち負けも正解もなく自由であったことが今でも好きでい続けられている大きな理由だと思います。

この自由であることの大切さを忘れずに、私はこれからも自身の目指すファッションを作っていきたいと思います。


長くなりましたが、最後までお読み下さりありがとうございました。

それではまた。


Akihide Nakachi

名嘉地


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