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サカナモラトリアム

言葉としては知っているし、辞書を引けば意味も書いてある。けど、自分の中でうまく飲み込めていない言葉みたいなものがある。

「メメント・モリ」も少し前までそうだった。
いくら言葉で説明されてもなかなか自分の中に染み込まなかった言葉のひとつ。
それがある日突然「そういうことか…!」となることがある。
その感覚を綴ったのが、2月に書いた「午前1時のメメント・モリ」というnoteだった。


「モラトリアム」という言葉も、よく意味がわからない言葉のひとつ。

だったのだけど、つい最近サカナクションの『ナイロンの糸』という曲を聴いた際に「この感じをモラトリアムっていうのかな」と、自分の中で初めてしっくりくるような感覚が訪れた。

(※以下、オンラインライブ『NF OFFLINE FROM LIVING ROOM』のネタバレを少し含みます)

厳密に言うと、5月23日に配信のあったオンラインライブ『NF OFFLINE FROM LIVING ROOM』にて披露された『ナイロンの糸』の視覚、音響効果があってこそ初めて気付いた感覚だった。

暗い部屋に佇む一郎さんの姿は(Rhizomatiksの技術による視覚効果で)ゆらゆらと揺らいでまるで水の中にいるよう。
揺らぎは歌声に呼応してリズムを刻み、一郎さんが声を張り上げるとより一層激しく波立った。
だんだんと自分も海の中にいるかのような錯覚に陥る。

「この海に居たい」
というフレーズが含む切実さをより強調する演出だったと思う。
「この海にいたい」と切望しつつも、絵面はまるでその海から出られない、閉じ込められているかのようにも見えて、「この海」に囚われている心を描写しているのかな、なんて考えてしまった。

MVや光ONLINEでの『ナイロンの糸』とはまた違った表情で、アレンジや演出でこんなにも印象が変わるのかと改めて驚く。

この海に居たい
この海に居たい
この海に帰った二人は幼気に
この海に居たい
この海に帰った振りしてもいいだろう

(ナイロンの糸/サカナクション)


「この海」を何とするかは人によってさまざまだろう。
「居心地のいい場所」かもしれないし、「居心地のいい人」かもしれない。
「故郷」かもしれないし、「夢を追いつづける心、情熱」のことなのかもしれない。

なんにせよ、それらから離れたくない、手離したくない、このままでいたい…
「ずっとこのままではいられないかもしれない」ことへの抵抗。そんな、幼子が泣きじゃくるような悲痛さ、切実さを感じて胸が締めつけられた。
そして、これが「モラトリアムってやつなのかな」という自分なりのひとつの(ぼんやりとした)解に辿り着いたのだった。


試しに「ナイロンの糸 モラトリアム」で検索してみたらこんな記事を発見。

■楽曲「ナイロンの糸」について
今回の楽曲となっている「ナイロンの糸」は、まだアマチュア時代の二十歳くらいの頃に、歌詞が付く前の原曲は完成していました。当時、将来も見えていない中で、毎日、釣りばかりしていた時一緒にモラトリアムを謳歌していた仲間がいました。
(中略)
何度も、サカナクションでアレンジをして、世に出そうと思っていたのですが、想い出の曲だったので、ためらっていました。そんな中、デビューから、11年を迎えた際に、「郷愁」ということを考えている時期があり、この曲をアレンジして世に出そうと思ったんです。当初のタイトルは、モラトリアム時代の友達の名前にしようと考えていたのですが、そこから、何回かタイトルが変わって、考えた末に「ナイロンの糸」になりました。

(リンク先インタビューより引用)

まさにモラトリアムって言葉がでてきてびっくり。
『ナイロンの糸』を聴いてモラトリアムを感じたのはあながち間違いではないのかもしれない…。

『ナイロンの糸』だけじゃない。
改めてよく聴いてみると、他にもサカナクションの曲にはモラトリアム感が散りばめられているように感じられる。
ちょこっと検索しただけでも山口一郎さん自ら「モラトリアム」という言葉を頻繁に使っていることがうかがえる。
どうやら一郎さんが自身を語る上で、また作詞や作曲する上で避けられない大事な要素のようだ。

友だちが言っていた。
サカナクションの詞は、「実はひっそり秘めてた想いを引っ張り出してきてくれる気がしてすき」だと。
普段流してしまっている小さな感情を、大切なもののように歌ってくれてる気がする、と。

素敵な表現だなぁと思ったし、なんかわかる気がする…とも思った。

普段流してしまっている小さな感情… モラトリアムもそうなのかな。私の中にもあるのかな。

辞書によると「モラトリアム」とはもともと「一時停止」の意味で、こと政治や経済の分野においては「支払猶予」を意味するらしい。
例えば災害などの影響で家賃や光熱費の支払いが難しくなった場合に一時的に支払いを停止、支払いの期限を伸ばしたり。
まさに今、疫病の影響でモラトリアムを求める家庭や企業も少なくないと思う。

そんな「一時停止、猶予期間」という意味から派生して生まれたのが、「大人になるための準備(猶予)期間」というニュアンスのモラトリアムだそうで。
私が自分の中にうまく取り入れられなかったのはこのモラトリアムのこと。

どうにも「大人になきりれない」人物を揶揄したり、「目を向けるべき責任から逃げている」というネガティブなイメージで使われることが多いようだけれど…。


先日のサカナクションに関するnoteや音楽文の中で私は、光ONLINE(オンラインライブ)での山口一郎さんのことを「ピーターパンみたいな人だな」と表現している。
けど、実は書くべきなのか結構迷った。

あくまでも「みんなを音楽の世界に連れ出して夢を見せてくれる」という意味合いでのピーターパンを私は連想したのだけど、
「ピーターパンみたいな人」というと「ピーターパン症候群」というネガティブなイメージが浮かんで違和感を抱く人もいるんじゃないかって。

【ピーターパン症候群】
年齢的には大人であるにもかかわらず、精神的に子どものままでいること。
特にそういう「男性」を指す言葉らしい。なんで男性なんだろ。

モラトリアムとピーターパン症候群は、どこか意味合いが似ている。


言い訳みたいになってしまうけれど、私が光ONLINEでの一郎さんにピーターパンっぽさを感じたのは、シナリオアートの『ナイトフライング』という曲が影響していたりする。

ウェンディ さあ行こう
冒険を はじめよう
もうだめだって 思った夜に
物語は はじまる

(ナイトフライング/シナリオアート)

「ウェンディ さあ行こう」という冒頭の歌詞からも、この曲はピーターパンをモチーフに描かれているんだろうなぁと感じる。
タイトルの「ナイトフライング」は直訳すると「夜間飛行」
これも、童話のピーターパンが夜空を飛んでいる様子と重なる。

深い夜に閉ざした心の窓を叩いて、さあ行こうよと音楽の世界へと誘い出す。
君を癒すための魔法のメロディーを探しに行こう、と。
童話のピーターパンが空を飛んでウェンディたちをネバーランドへ連れて行ったように。

光ONLINEで私が見た一郎さんは、まさにそんなイメージだったのだ。
「みんなおいでよ!一緒に楽しもう!夜を乗りこなそう!」って。
だから、「ピーターパンみたいな人だな」と表現した。
(読んでる人からしたら突然のピーターパンに「?」ってなったかもしれないけれど、そういう経緯が私の頭の中にあったのです)

けれど、モラトリアムの意味と一郎さんが語るモラトリアムについて少し知った今、「ピーターパンみたいな人」というのはまるで一郎さんのモラトリアムな一面を皮肉して言っているようにも聞こえてしまうな…と、なんだか申し訳ない気持ちになっている。
(一郎さんは自身のモラトリアムにネガティブな感情を抱いていないようだけれど。
モラトリアムを謳歌した、その頃の「貯金」で曲を作っている…と、2018年時点のインタビューで語られている)


一般的に「モラトリアム期間」と呼ばれる18〜22歳前後は、アイデンティティ(この言葉も私の中では意味がぼんやりとしている)を確立し、社会的責任を担う準備をする期間…と言われているらしい(心理学者エリクソンが提唱した発達心理学より)

自分が何をしたいのか、答えのない答えを探す期間。
…ってつまりそれは『アンパンマンのマーチ』で言うところの

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!

っていうこと??

私はというとモラトリアムと呼ばれる年齢の頃、音楽の専門学校に通っていた。
卒業後間もなく子どもを身篭りそのまま母親になったため、仕事はアルバイトを転々とするのみで齢32となった未だ正社員として働いた経験がない。
そのことをずっと秘かにコンプレックスに思ってきた。

なんとなく、精神的に21歳くらいで止まってしまっているような感覚がある。
そんな自分のまま、社会へ投げ出されることへの漠然とした不安。
周りの人たちがみんな立派な大人に見えて、ふとした瞬間に「私はこのままでいいのかな…」と焦りが出る。
結婚して、子どもがいて、傍からみれば私も安定した「大人」に見えているのかもしれないけれど…
その実、中身は世間知らずな子どものまま感が拭えない。

「立派な大人」に見えている人たちもそうなのかな。
なんてことない顔して、「普通」のふりして「大人」のふりして、うまいこと生活してるのかな。


周りがどんどん変わっていく(ように見える)中で、変わらない存在に救われることがある。

救いなのだその幼さが 君だけは大人にならないで
(月曜日/amazarashi)


amazarashiの『月曜日』を聴くと高校生の頃のことを思い出す。

当時仲の良かった友だち。
音楽とかお菓子作りとか趣味嗜好が似ていて、一緒にいると心地よかった。

この人とはいつまでも友だちでいられると思っていたけれど、それはある日あっけなく崩れた。
友だちに彼女ができたのだ。
普通はそれくらいで関係が崩れたりはしないのかもしれない。
でも、私は彼にどう接したらいいのか分からなくなってしまった。
結局私は高校を卒業する直前まで彼との接触を避け、口をきけなくなってしまった。

そうなってしまった原因に心当たりがある。
小学生のとき、仲のよかった子に急に無視されるようになったことがあったのだけれど、その原因が「嫉妬」だったのだ。
その子の好きな男の子が、私のことを好きだったから。
(卒業間近になって「ごめんね」とともにその子自らそう話してくれて判明した。初めての「嫉妬」という感情に戸惑った故の行動だったみたい。
その後は仲直りしてまた元通り… とはいかず、趣味も興味も交友関係も少しずつずれていって彼女とは自然と疎遠になった)

その時のことが、いつの間にかトラウマになってしまっていたのかもしれない。
「嫉妬」が怖い。
あの時みたいになりたくない。
本人たちがどう思っていようと、側から見れば私は女で、彼は男なのだから。
「彼女」のいる彼に私は近づいてはいけない。
誤解を招いてはいけない。
「適度に」なんていう匙加減は分からないから、ゼロに振り切って徹底的に接触を避けるしかなかった。

彼と話せないのは想像以上につらかった。
彼と彼女が一緒にいるのを見るのは想像以上につらかった。
いつの間にそんなに彼の存在が「特別」になってしまっていたんだろう。
多分、彼が私のことを「信頼してる」と言ったときだ。
彼に信頼されるような心当たりはなかったけれど、真っ直ぐに「信頼してる」と言う彼の言葉を聞いて私も「この人を信頼したい」と思ったあのときから。

お気に入りの本、音楽、新しくできたケーキ屋さん…
お互いの「好き」を共有しながら少しずつ心が近くなるような気がしていた。
そうやって少しずつ積み重ねたものが「信頼」になるのかなと思っていた。
一人じゃ勇気が出ないことも、彼が側にいてくれれば一歩踏み出せそうな気がしていた。
まだまだこれから仲良くなりたかった。そうなれると思っていた。

彼女… 恋人…
そうか、そうだよね。もう高校生だもん。全然「普通」のことだよね。人を(恋愛感情として)好きになったことすらない自分の方が多分、おかしいんだ。だけど…

身勝手ながら、彼が遠くへ行ってしまったような気がした。
自分と同じだと、どこかで思っていたのかもしれない。傲慢だな。

明日の話はとにかく嫌い 将来の話はもっと嫌い
「儚いから綺麗」とか言った 花火が永遠ならよかった
見えてるものを見えない振り 知ってることを知らない振り
いつの間にそんなに大人びて笑うようになったのさ
(月曜日/amazarashi)

でもきっと私も同じなんだと思う。
どこかで、だれかの気持ちを置いてけぼりにしている。
実際、彼にも言われたことがある。
「ひと(私)が遠くへ行ってしまうような気がする」と。

卒業が近付いた頃、彼と彼女が別れたと風の噂で聞いた。
私たちはまた少しずつ以前みたいに話せるようになった。
高校卒業後はそれぞれ別の道へ進んだけれど、メールで近況報告したりという縁はつづいて、このままいつまでも友だちでいられると、私は再び思ってしまったのだ。

彼が少しずつ元気じゃなくなっていくのをメール越しに感じたけれど、気のせい、私の勘違いかもと思うと何も言えなかった。
学内のコンテストで入賞したよという私の話を、彼はどんな気持ちで聞いていただろう。

彼とは、地元の成人式で会ったのを最後に連絡がとれなく、会えなくてなってしまった。
縁起でもないけれど、生きているのかどうかすら分からない。
どこかで、元気にしてるといいんだけど。

確かに似た者同士だったけれど
僕ら同じ人間ではないもんな
1番怖いのはさよなら
それなら約束しよう 永遠に別れはないと
永遠なんてないと知って誓った
それが愛や友情には 遠く及ばないとしても
(月曜日/amazarashi)

今後人生が交わることはもうないかもしれないけれど、出会えたことを心から感謝してる。少なくとも私は。


誰かと深い関係になるのを無意識に避けてきた。
だから私は友だちが少ない。
仕事の人間関係すらうまく築けなくて、バイトを転々としてきた。
引っ越しも多く、その度に人間関係がリセットされる。だからいわゆる「ママ友」もいない。
誤解を招くかもしれないので補足すると、人がきらいなわけではない。むしろ、好きな方だと思うんだけど…。

しゃべるのが苦手だから文章で気持ちを表現した。
インターネットや文章を介してのコミュニケーションの方が自分には合っているようだった。
はじめから文章を通して心の内を見せてしまっているから、それで合わないと感じた人は去るだろうし、興味を抱けば話をしたり、そっと見守ってくれていたり。
けど、これも見方によっては人と向き合う努力から逃げてるってことになるのかな。

恋愛からも逃げてきた。
最も、「逃げている」という自覚はなかったのだけれど。
自分は恋愛しなくても平気なタイプなんだって、親のこととか、トラウマとか関係なく、もともとそういう人間なんだって、ずっと思っていた。
もっと他の、自分が好きなことに没頭して生きていくものだと、それが自分のしあわせなんだと思っていた。
人は好きだけど、恋愛感情としての「好き」はよくわからない。未だに。

何歳だから、男だから、女だから
「はやくあなたも◯◯しなきゃ」
「◯◯しないのはおかしいよ」
「普通は◯◯でしょ?」

ちょっと前まで「まだ◯歳なんだから」って言われてたのにへんだな、今度は「もう◯歳なんだから」って言われるんだ。
直接自分が言われたわけじゃなくても、そういう言葉を自分ごとのように捉えてしまう。

周りの声に流されて、急かされて
そうなのかな…?そうなのかも…って。
自分の気持ちが揺らいでしまった。

私が妊娠したことでいろんな人が驚いた。
「まさかあの子が」
祝福の声もあったけれど、失望や怒りを抱いた人もいたんじゃないかなと思う。
何も知らない子どもだと思っていた人物が、あまりに早く予想外のことになってしまったから。
いや、「何も知らない子ども」だからこそ、こうなってしまったのかもしれない。

裏切ってしまったような気がした。自分自身を。
誰に何と言われようと、自分の気持ちを大切にするべきだった。

私がもっと賢ければ
私がもっと強ければ
私がもっと自分を大切にできていれば

こんなことを言うと「今」を否定してるように聞こえてしまうね、きっと。
うまく言えないけれど、これでもちゃんと「今」を生きているつもり。
選ばされたんじゃなく、確かに選んできたはずなのだから。


自分で選んできたのに 選ばされたと思いたい
一歩も動いちゃいないのに ここがどこかさえ怪しい
あなたを乗せた飛行機が 私の行けない場所まで
せめて空は泣かないで 優しく晴れますように

(please)forgive/BUMP OF CHICKEN

私はこの曲のことをかなり独自の解釈をしていると思っていて、それについてはここでは書けないのだけど…
モラトリアムの意味を掴みかけている今、ふとこの曲にも強烈なモラトリアムを感じた。

ただ怖いだけなんだ 不自由じゃなくなるのが
守られていた事を 思い知らされるのが
まだ憧れちゃうんだ 自由と戦う日々を
性懲りもなく何度も 描いてしまうんだ

子どもから大人へ、不自由と自由、責任。
その狭間で揺れる気持ちみたいなものが描かれているのかなって、いま初めて思った。
たぶん、もともとこういう捉え方をしてる人の方が多いような気がするけれど。

言葉ひとつ知るだけで、こんなにも見え方が広がるんだな。



サカナクションの『ナイロンの糸』に戻ろう。

この海に帰った振りしてもいいだろう

いつまでもそこにいられないと知りながら、しがみついてしまう場所。手離せないもの。手離してしまったもの。
ふと振り返って、「あの頃」の感覚に戻ってみたくなることがある。
このなんとも言えない、胸が締めつけられるような感情。これがモラトリアムってやつなのかな。


モラトリアムは期間限定のものなんだろうか。
一度モラトリアムを脱したら、もうモラトリアムになることはないのだろうか。

「自分は立派な大人です」「一人前の人間です」なんて、私は一生自信をもって言えなさそうな気がする。

大人になれないのは、わるいことなのかな。
「あの頃」をいつまでも大事に抱えて生きるのは、いけないことなのかな。
忘れ去ってしまうより、取り戻せなくなるよりずっといいと思ってしまう私は、駄目なのかな。

自立してないとか、協調性がないとか、斜めに構えて気難しそうとか、ネガティヴなイメージが先行しているからなかなか言いづらいけど、モラトリアムって生きていく上でとても大切なことのような気がする。
モラトリアムを謳歌した人は他人のいろいろにも寛容になれるんじゃないかな。
少なくとも、モラトリアムな人を揶揄したり、モラトリアムというだけで嫌悪したりはしなさそう。

堂々と「モラトリアム」という言葉を発せられるサカナクションの山口一郎さん、改めてすごいな。なんか、勇気がでる。

モラトリアムは生きてく上で必要なことで、ネガティヴなことじゃないんだよっていう認識が広まっていったらいいなと、まだモラトリアムがなんなのかやんわりとしか掴めていない私は、朧げに思う。

何歳だから、男だから、女だから、「普通」は…
そんな言葉に惑わされて何度か自分を見失った過去の延長にある「今」だけど、
ちゃんと自分で選んだ今を生きているんだと胸を張って生きていきたい。

人との関わりを諦めそうになるとき、言葉を閉じ込めそうになるとき、自分の本当の気持ちを犠牲にしそうになるとき、過去の「過ち」が、「わだかまり」が、そっと背中を押してくれる。
ほら、今度は手を伸ばすんだよ って。

行きつ戻りつ、一進一退しながらも、きっと少しずつ成長できてる。大丈夫。



これはもう20年くらい前の記憶。

息を吐いて、大きく吸う。
壁を蹴って水中に潜り、そのままぐんぐんとスピードを上げながら下降していく。
音がぼやけて、水圧が背中に心地よくのしかかる。
お腹がプールの床にすれるくらいギリギリの位置をキープしながら泳いでいると、どこまでも行けそうな気がした。

そこがプールでよかったと思う。
もし海だったら、夢中で潜っているうちにもっと深いところへ行って戻ってこられなくなっていたかもしれない。
夢中になると周りが見えなくなる性分は、ときに命さえ危険にさらす。

「潜水」
水泳の中でも特に好きな泳ぎ方。

文章を書くときもよく、深く深く潜ってしまう。
書いているときは夢中で気付かない。むしろ「楽しい」とすら思っている。
深く潜って自分の内面や痛みと向き合った反動は遅れてやってきて、心や身体がダメージを負う。

ちょっと疲れて水面をぷかぷか漂ったり、浅瀬でばしゃばしゃ遊ぶような文章を書いたりもするけれど、やっぱりまた深く潜ってしまう。

もっとフラットに、読んで温かくなるような文章ばかり書けたらいいのだけど。
読んでくれた人までダメージを負っていないといいなと、いつもそう思っています。

ここまで読んでくださってとってもありがとう。


※潜水、今は禁止されているプールがほとんどだそうです。やっぱり危険が多いからですかね。楽しいんだけどね。


【追伸】

この文章を書いている最中、サカナクションの新曲『プラトー』がちらっと公開された。
めちゃくちゃかっこよくてびっくり。いやホントかっこいい。
まだ知らない曲も多いサカナクション初心者な私が言うのもなんだけど、「今までありそうでなかった爽やかな曲」という印象。

僕はまだ
多分まだ 目を閉じてる
だから今 笑えるのか
この風が 悲しい言葉に聴こえても
いつかそれを変えるから

(プラトー/サカナクション)

歌詞は「サンテFX×サカナクション」特設サイトより。

プラトー… 停滞期

静かな、内に秘めた野心を応援」という参天製薬さんのキャッチコピーもいいな。
サンテFX(目薬)の容器もなんだか水槽みたいなデザインでかわいい。
欲しくなっちゃうけど、スースーするタイプの目薬はちょっと苦手なので残念。

とにかく今は『プラトー』をフルで聴ける日が待ち遠しいです。

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