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午前1時のメメント・モリ

見送る側と見送られる側なら、断然見送る側がいい。

最近、noteでもTwitterでもその他でも「死」を意識した言動が増えてきている。
例えば冒頭のようなことを真夜中に突然Twitterで呟いたりする。
急にどしたの?と、ふと自分を客観的に見てあわてて弁解するまでがワンセット。

これじゃまるで、自分か家族か身近な人に「死」が近付いているのでは…?と、ツイートを見た人に誤解や心配をかけかねない。
例えばそう、大きな病気が見つかったとか、余命宣告されたとか。もしくは今わたしが「死にたい」と考えているんじゃないかとか。

「全然そんな予定はないんですけど」
「なんのフラグでもないんですけど」
だから、心配しないで…とその度に付け加える。
本当に、今のところそのような予定はありません。

そうは言っても「予定は未定」なわけで。
ついこの間も書いたけれど、自分の意思とは関係なく人生の終わりはいつ訪れるか分からないわけで。
自分の意思でさえ、数秒先には180度変わっていないとも言いきれない。
今日「死にたくない」と言っていた人間が、明日には「死にたい」と言っているかもしれない。

ほんの少し前にもnoteで〈昔から「死」を漢字で書くことを避けがち〉だと書いたばかりなのに、このnoteでは早速「死」を漢字で表記している。
むしろ今は、ひらがなで「し」と表記することの方に違和感を覚える。むずむずする。
本当は、前のnoteを書いている時点でそのような違和感はあった。

「死」から目を背けられなくなってきている。
まだ、「死」という字を見るたび書くたびに鳩尾はずーんと重くなるし、ふらふらと気持ちは揺れ動くけれど。多分これからは漢字で書くことが増えるような気がする。

私が最近「死」を意識した言動が多いのは、むしろ「生きたい(死にたくない)」という気持ちが強すぎるからなんだと思う。

生きたいと強く願えば願うほど、どうしようもなく「死」を意識してしまう。
絶対的な存在としての、死。
いつか誰にも訪れる、死。
その絶対的存在、圧倒的存在に抗うように今生きている… そんな感じ。

「死ね」とか、「死にたい」とか、簡単に言うもんじゃありませんと教わってきた。
直接自分が言われたわけじゃなくとも、誰かが言われているのを聞いたり、本やテレビで見てそう学んだ。
「死」は避けるべきもの、忌み嫌うべきもの… そんなふうに。

本当は生まれたときからずっと、今までもずっとそばにいたのに。目を背けてきた。見えないふりをしてきただけなのかもしれない。

最近の私の「死」を意識した言動は他にもいろいろあって。
ついこの間も、もしも自分が死んでも書いた文章は産み出さなきゃ…とブログの予約投稿をしてみたり。
1月に着手したあるnoteは、最初は自分の過去の「失敗談」を軽いテイストで書いていたのだけど、なぜか途中から(主に子どもたちへ向けての)遺言みたいになってしまって。
あっれ?おっかしいな〜… という方向に転がっていってしまったので、今は一旦下書きで熟成中です。

私のnoteを子どもたちが読むことなんてないかもしれないし、全然まだまだ生きるつもりしかないけど、ちゃんとした遺言のひとつや二つくらい、残しておいてもいいのかもね。 

これ、全然暗い気持ちとかじゃなくて、穏やかな気持ちで書いてるんですよ。
「死」に向き合うって、実はネガティブなことじゃなかったのかも。
そう思うにつれ、だんだんと「死」をひらがなで書けなくなってきた。漢字で表記することに抵抗が無くなってきた。 



昔から「長生きしたい」と無邪気に言うような子どもでした。
死ぬことを考えると怖くてたまらなかった。今でも、怖い。

子どもの頃、二段ベッドで寝ていて。私が上の段で、弟が下の段。
枕元にはお気に入りのおもちゃをたくさん敷き詰めて、ベッドの船で夢の国へ行く想像をしていた。
宇宙みたいな空間をベッドで進んでいく。ベッドの中と外は完全に異空間だから、夢の国へ着くまでは決して手や足をベッドの外へ出してはいけない。でないと、はみ出した部分が切り離されてしまう(なにその設定こわい)

ある日、テレビで突然死のニュースを見た。
そんなことあるの?と子どもの頃の私は衝撃を受けた。
夜、いつもと同じように寝て、当たり前のように朝がくれば目が覚めると思っていたのに、そのまま目を覚さないなんてこと…。
そんなの、下手したら自分が死んだことにも気づけないってことじゃん?

そんなの怖すぎる。
自分でも気付かないうちに消えてしまったとしたら、そこから先は「無」になってしまうのかな。
それまで考えていたことも、してきたことも、これからしたかったことも、全部プツンと途切れて何も無かったことになるのかな。いやいやいや怖すぎるでしょ。
それならまだ、今から自分は死にますって自覚できる状態で死ねる方がまだいい。…いいのかな。それはそれで怖いな。

もし、自分や地球の最期が分かっていたらどう過ごそう?

地球最期の一日を どうやって過ごそうかな?
慌てふためく人々を背に ワイングラス鳴らすよ
“この星に乾杯”
壊れゆく星 横目に踊ろうよ
僕らが消える その瞬間まで
踊り続けよう

シナリオアート『ラブマゲドン』
世界の、命の終わりを目前にしてなお、穏やかな変わらぬ日常を送りつづけるような歌詞。でもなんとなくリアルな気がする。

何より(あっ これネタバレになるかな)、この曲の終わり方に私はいい意味でゾッとする。
めちゃくちゃ盛り上がって壮大になって、フェードアウトで終わりそうな感じなのに、まるで隕石が衝突して一瞬で全てが終わったかのような余韻のない終わり方。
でも、本当の最期はこれくらい呆気ないものなのかもしれない。


THEE MICHELLE GUN ELEPHANT『世界の終わり』という曲でも、世界の終末に瀕してなお変わらぬ日常を送り続けるような描写がある。

世界の終わりが そこで見てるよと
紅茶飲み干して 君は静かに待つ
パンを焼きながら 待ち焦がれている
やってくる時を 待ち焦がれている

死の間際まで紅茶を飲んだり、パンを焼いたり、ワイングラスを鳴らしたり。
どうしてそんなに落ち着いていられるのと思いつつ、案外そんなもんかもしれないな、そんなふうになれたらいいなと思う自分もいる。


突然死のことを知ってから、寝るのが怖くなった。
眠れずにいると、やたら時計の秒針やら自分の脈の音が気になる。余計に眠れない。
寝る前に、祈るようになった。

どうかちゃんと朝がきて目が覚めますように。
どうか戦争が起きませんように。
どうか地震が起きませんように。
どうか地球が滅びませんように。
どうか大切な人たちがずっとずっと生きていられますように…。
祈らないと、安心して眠れない。

朝、目が覚めるとホッとした。生きてる。
家族の顔を見てまたホッとする。よかった、みんな生きてる。

いつまで生きて いられるかなぁ
いつまで生きて いてくれるかなぁ
このまま起きて いられたらなぁ
大人になったって 大忙し
(睡眠時間/BUMP OF CHICKEN)

アコースティックギターと藤原さんの歌声だけのこの曲をイヤホンで聴きながら眠りについたことも度々。藤原さんの歌声の安心感たるや。

眠れずに 時計の音と 呼吸のリズム 気になった
息を吸った 吸ったら吐いた 考えてるうちに苦しくなった
(睡眠時間/BUMP OF CHICKEN)


「呼吸のリズム」といえば、THE BACK HORN『初めての呼吸で』という曲が大好きなんですけど、この曲のBPM(テンポ)が120で、歩いているときの心拍数にいちばん近いらしい(ギターの菅波さんいわく、たまたまそうなっていてびっくりしたとか)

疲れ果てて泣くだけ泣いて
死んでやると飯を炊きながら 日々を越える

この、「死んでやると飯を炊きながら日々を越える」っていう歌詞がずっと好きで、ブログでもTwitterでも度々言ってる。

私はこの曲のイントロの掴みどころの無さというか、ふわふわした気怠い感じも絶妙に好きで。
実はこれ、コードを間違って弾いたら「そっちの方がいい!」ってなった結果なのだそう。

繰り返す日常の気怠さや雑多な穏やかさが音にも歌詞にも映像にもよく表れている。
ただただ音楽に身を委ねてふわふわ漂っていたくなる感じ。
ボーカルの山田将司さん、最後の方なんて血管切れるんじゃないかってくらい絶叫しながら歌っているのに、不思議と聴いてて落ち着く。

※山田将司さんは2019年に声帯ポリープの切除手術、治療をしています。どうかお大事に、これからも素晴らしい歌声を響かせてほしいです。

この曲のテンポの話や、間違って弾いたコードが採用された話の出典はこちら。

2008年2月発行のbridge(Cut増刊号)
BUMPの藤原さんのインタビュー目当てで買ったけど、バックホーン始め他の掲載アーティストさんの記事もとても興味深くて、当時何度も読んでた。こんなに1冊まるごと繰り返し読んだ音楽雑誌はこの一冊くらいじゃないかな。
2004年8月発行のrockin'on JAPAN8月号と並んで、私にとって大切な音楽雑誌です。

裸足で体育座りしているBUMP藤原さんの表紙が目印。もし興味とご縁があれば手に取ってみてください。


話を、「死ぬのが怖い」に戻しまして。

今10歳の息子も、「死」をとても怖がる。
ある日の夕方、突然しくしくと泣き出したので理由を訊くと「自分がいつか死ぬってことを考えて…(怖くてたまらない)」と言っていた。

「死んだあとはどうやって生きたらいいの?」と尋ねてきたこともあったな。死んでも生きる気だなこの子。

漫画やアニメや映画みたいに、死んだあともどこか別の世界で生きていられたらいいのにね。
せめて、自分は死んだんだなってことを理解できたらいいのに。

乙一さんの短編集『失はれる物語』に収録されている『しあわせは子猫のかたち』みたいに。
死んだあとも、しばらくこの世界にとどまれたら。例え、生きている人たちや世界に直に関わることはできなくても。

「しあわせは子猫のかたち」は、殺されてしまったものの飼っていた猫のことが気がかりで成仏できない女性と、その女性が住んでいた家に新しく越してきた青年との、いわば幽霊と人間の不思議な同居生活のお話。
幽霊のお話だけど、やさしい幽霊だから私みたいな怖い話が苦手な人でも大丈夫だと思うよ。最後の手紙とかさぁ…(読んで)

息子は、七夕の短冊にも『ずっと生きられますように』と書くような子だ。
「お母さん、産んでくれてありがとうね」と、突然言い出したりもする。

私は大してできた母親じゃない。にもかかわらず、何がそこまで「この世に生まれてよかった」とあなたに思わせているのだろう。どうかその気持ちをこの先も大事に抱えていてほしいと思う。

お気に入りのぬいぐるみたちに埋もれるようにして寝ている姿を愛おしいと思う。どうかそのままでいてほしいと願ってしまう。
あなたたちの口から「死にたい」なんて聞きたくないよ。
あなたたちに「死にたい」と思わせるような世界であってほしくないよ。

私もいろいろあったけど、「大人」と呼ばれるようになって随分経つ今でも子どもの頃から変わらずやっぱり死ぬのは怖いよ。

どうしてそんなに生きたいんだろう。
多分、生きていたい(死にたくない)理由があふれているから。

小説を書き上げるまでは死ねない。
親孝行するまでは死ねない。
子どもたちの成長を見ていたいから死ねない。
大切な人に気持ちを伝えるまでは死ねない。
大好きなアーティストの新譜を聴くまでは死ねない。
もう一度ライブに行くまでは死ねない。
会いたい人に会うまでは死ねない。
行ってみたい場所へ行くまでは死ねない。
してみたいことするまでは死ねない。
ずっと食べてみたいと思っている美味しいもの食べるまでは死ねない。
応援している人たちが夢を叶えるところを見たいから死ねない。

挙げたらキリがないけれど、この世にも今世にも未練ばかりでまだ全然死ねないよ。

満たされていたいって いつも思うけれど
満たされていないからこその 願う力
腹が減ってる時の 食欲みたいなもの
あなたはどうか大事にしてね
失う事に慣れたりしなかった
最後まで僕は悲しい人間でした
だけどそれと引き換えに 僕は願うのです
生きて 生きて 生きていたいよ
(エンディングテーマ/amazarashi)

※実はこの曲のMV、サムネが怖そうで今まで見る勇気がなかったのだけど… 今日おそるおそる見てみたら… 大丈夫でした。



見送る側と見送られる側なら、断然見送る側がいい。
大切な人たちみんな、最後まで覚えていたいから。

最後の一人になって、大切な人たちとの思い出や、今までもらった花束みたいなうれしい言葉の数々をひとつひとつ思い出しながら、誰もいなくなった世界に向かって「ありがとう」って言いながら、死にたい。

でも、できれば誰にも死んでほしくないよ。
誰も見送りたくないよ。そんなの無理だけど。
いつかその日がきてしまうけど。おそらく、何度も。
そして、いつかは私も見送られるのかな。

私が最近「死」を意識してしまうのは、きっと生きたい気持ちがつよいから。
生きたいと願えば願うほど、「死」から目を背けられなくなる。
いつか必ず訪れる、死。そもそも生まれた瞬間から、「死」は避けて通れなかったんだ。そう思うと、不思議と少し安心した。

「死」を真っ直ぐに見つめたら、「生」の方向も見えてきた気がするよ。
今更かもしれないけど、今からでも遅くないよね。

どうか、眠る度にまた目が覚めますように。
どうか、大切な人たちと1日でも、1分でも、1秒でも多くこの世界に生きていられますように。

おやすみなさい。



※メメント・モリ… 諸説ありますが、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れることなかれ(だから生きている今を大切に)」みたいな意味が私の中ではしっくりきてるのでそういうニュアンスでタイトルに用いました。

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