「監視資本主義」とweb3.0について考える
「監視資本主義」(ショシャナ・ズボフ)著という海外でベストセラーになったという本の読書会を、わたしが友人と主催しているデジタルウェルネスラボという組織のイベントとして行った。この本は、原著は2019年1月にアメリカで出版され、翻訳が出たのが2021年7月。日本では海外ほど話題になっていない(その理由は後程)。読書会は全四回。大学で同じ研究室に所属するMさんにも手伝ってもらい、合計600ページの本文をスライドにまとめ(合計枚数200枚以上!)、毎回15名ほどの参加者とオンラインで、時に雑談も交えながら読書会を行った。最終回では、その監視資本主義とweb3.0について、ブロックチェーンエンジニアも交えてディスカッションを行った。
1.「監視資本主義」の概要
まず、ズボフの「監視資本主義」の内容をざっくりとご紹介する。そもそも、監視資本主義と聞いてピンとくる人はどれくらいいるだろうか。これは、ようは「GAFAのような巨大IT企業によって、人々が監視され支配されている社会」を意味する。確かにわたしたちの生活は、彼らのインフラによって成り立っている。「スマフォ(Apple)」で「ググって(Google)」、「ポチる(Amazon)」。よかったら「いいね(Facebook)」する、といった具合に。こうしてそれらが無意識レベルで社会に浸透する背後で彼らはそのデータを使ってボロ儲けしている(不当に儲けている)というわけである。欧米では特に2010年代後半以降問題視されるようになったテーマである。5年ほど前からたびたびザッカーバーグがアメリカの議会に呼ばれて詰問されたという話や、GoogleやFacebookのプライバシーポリシーの変更の話、ヨーロッパでの「GDPR」やそれに伴い日本企業がEUで気を付けるべきこと、日本ではまだ少ないが「監視資本主義」そのものの問題点について、ニュースやネット記事で取り上げられてきた。テクノロジー事情に感度の高いWiredなどでは、Facebook批判であり監視資本主義の問題点に関する記事をたくさん読むことができる(例えばこちら)し、ネットフリックスで配信されている「監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影 」が話題となったので、ご存じの方もいるかもしれない。
その「監視資本主義」について、その成り立ちから現状、そして、いかに「彼ら」が巧妙に事を成し遂げ、もはや政府すら口出しできないほどの強大な権力をもつ帝国を築き上げ英雄となった一方で、そして市民(ユーザー)の権利をないがしろにし、データを生み出すただの「原材料」とし、あらゆる分断と格差を生み出してしまったその経緯と惨状であり倫理的な問題点を、畳みかけるように事例と考察を積み重ね論じているのが、ズボフの「監視資本主義」である。ズボフの主張をまとめると以下のようになるだろう。
ざっとこのようなものになるのではないか。少し、ズボフが、考えるこの監視資本主義から抜け出すために必要なことについて補足したいのだが、まず、彼女は、監視資本主義以前の古き良き民主主義、資本主義に答えを求める。ズボフは、ともかく「自由意志」を重視するのだ。自由意志は、それ自体、存在するかどうかが論点であり決着はつかないとされているようなコントロバーシャルなテーマだが、ズボフはある意味で純粋にそれは存在し、それを守るべきだ、つまり、行動主義(スキナー)や現代科学の前提となりつつある自由意志を否定する考え方に、アーレントやサールを引用しながら反対する。そうして、人間は、自由に何かを選択することができるという前提があってこそ、基本的な社会機能が機能するということをいう。約束や契約である。この約束や契約というものすら、この行動主義を土台にした監視資本主義は無き物にする。つまり、選択肢提示からその選択まで、すべてが誘導されているというのだ。例えば、そもどもデバイス、検索、購入、友達の選択肢がGAFAに限定され、ユーザーが何を選択するかすらGAFAが予想できているなら、たしかにそこには選択の余地もなく、自由はない。その結果、未来への約束も成り立たなくなる、なぜなら、自由に選択可能で不安定で、心もとない未来があるからこそ、未来に向かって約束するからである
約束、契約することで、未来を決めることができる。しかし、その約束、契約が、本来の私の意志による決定ではなくなったなら、もはや未来というものすら存在しなくなる。しかし、監視資本主義は、わたしたちの行動を予測し、予め選択肢を用意する、または決定を自動化する。例えば、今度の夏にどこに旅行に行くのか、これまでの傾向性から、沖縄だとAIが提案し、それがいいと思えたとしよう。そのとき、それは、私の意志ではない。自由な選択肢があって選ぶ能力を奪っている。子どもに晩御飯の選択肢がないように、程々の満足が得られるものが予め決められている行動しかできない社会は、心地は良いが自由はないというわけだ。その社会は、その選択肢を提供する存在に支配されていることは間違いない。
以上が、この600ページを超える大著を読んだ後に残った、私の頭の中にある印象である。
2.「監視資本主義」の感想
いかがだろうか。基本的に、私は監視資本主義を批判するズボフの主張に共感するが、後述する違和感がある。
ズボフに限らず、現代社会のこうしたテクノロジー監視社会に対する批判は、繰り返しあった。ざっと以下の感じで。
この図に示した(あまり示せてないけど)ように、ディストピア論や悲観的技術決定論は、それぞれ、産業革命で生まれたテクノロジーや、戦争で生まれたテクノロジー、インターネットによって生まれたテクノロジー、というような時代によって変遷したテクノロジーに合わせて生まれてきている。なので、この監視資本主義も、インターネット、とくにweb2.0(クラウド、SNSなど)によって生まれた流れと見ることができる。
しかし!そうした、テクノロジー要因をズボフは無視する。社会学の問題にしたいからだ。この点と、この自由意志重視の思想は、日本人には合わない点で、私は違和感を覚えるのだ。
私の感想をズボフへのメール風に書くと、次のようになる。
うーん、もうちょっとちゃんと書きたいけど取り急ぎこんなところで(内容は十分ではないし、当然メールは送っていない)。
読書会に参加いただいた信原先生からも、これでは監視資本主義を超えることはむつかしいのかもしれないという指摘もあった。例えば、ポストモダン以後、いわゆる人間中心主義的考えを越えていこうという流れが生まれた。旧来は、人間は、テクノロジーに対して従属的なのではなく、人間こそが自律的に存在し、人間はテクノロジーを自由に使うことができると考えてきたが、テクノロジーのすさまじい進化と普及は、むしろ人間のあり方がテクノロジーによって形成されているのではないかということへの気づきが生まれた。実際には、テクノロジーと人は、「お互いに作り合う」というのが妥当な見解だと現代の技術哲学でも概ね捉えられている。ならば、西洋近代的自己観が前提とする「自由」を疑う必要も出てくる。そこへフーコーを持ち出すのが監視社会論の鉄板だが、果たしてそれは21世紀の答えなのだろうか?
そして、2022年の現在、そのインターネットのプラットフォーム自体が根こそぎ新しいものになるともいわれている。ズボフがこの本を書いた2019年時点では、そこまで盛り上がっていなかった流れだが、web3.0と呼ばれる流れである。
このweb3.0は、この監視資本主義へのカウンターであり、それをやっている人たちは、GAFAであり監視資本主義のやり方が気に入らないのでやっているし、その技術的可能性を確認している。なので、シリコンバレーでは、GAFAから、web3.0企業へ人材が移動しているらしい。
さて、この流れは本当に監視資本主義を転覆できるのだろうか。
また書いてみたい。
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