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デジタル世界で蠢く生命体とテクノロジーの精神

このドキュメントは、私のテクノロジーに関する考え、とくに、「テクノロジーと精神」について2019年9月時点でまとめたものです。
当時は、技術設計者でしたし、今の技術哲学を研究している立場からすると、色々コメントしたいところもありますが、記録としておいておきます。
冒頭に、自己紹介を兼ねて、そう思うように至った経緯を書いています。


私は、京都出身の父の仕事の都合で、鳥取で生まれ育ちました。

ジブリの世界のような自然豊かな里山が残っていて、その自然の中で日が暮れるまで、探検していた子供の頃。

けれども、なぜか、幼少期から私の意識の中には、世界認識に対する得も言われぬ「違和感」がありました。

いつも、風邪を引くと見る頭が狂ったような夢の影響もあってか、自然が豊かに調和したその世界と、人間としての私の中にある、おそらく人間であるがゆえ、と子供心に思われた、いびつで未完成で狂気に満ちた内面が、成長するごとに迫りくるように強く感られていきました。

このままでは死ねないと思い、その内面を「どうにかする」ために、大学に入ってからは音楽に没入しました。

入学したのが1998年。その頃戦後最大の就職氷河期で、社会が若者に何も期待しておらず、そんな空気を若者も感じる退廃的な何かが漂うなかで、クラブ通いとスタジオでのセッションに明け暮れ、家ではひたすらレコードを聞き、大学には行かずに音の世界に没入。

今思えば、音に陶酔している間は、その音の世界と共鳴し安定する。さらに、その音が自分が創造した音であればそれと心地よく内面の音が共鳴し、得も言われぬ違和感を、根底から消し去っていってくれるような感覚があったんだろう。

けれども、その忘れ去られたかに思えた違和感を、24歳のときにもう一度突きつけらる。それは、音楽活動に挫折し西表島の原生林で単独でサバイバル生活をしていたときのこと。

私という「存在」であり「意識」が、原生林ジャングルという、完全に調和した生態系の中で浮かび上がり、お前は、生態系にとって「異物」なのだということ突きつけられました。

そのことによって、かえって、「人間であることの諦め」を得て、人間としての「性(さが)」をもって、何らかの形で人類の進化であり発展に貢献するという今の私の理念に到達したように思います。

この「違和感」について、初めてこうして文章にしてみて今わかったことがあります。それは、この「違和感」と、『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』、『攻殻機動隊』や『ニューロマンサー』など未来を描いた作品に表現されてきた「ディストピア」が通じるのではないかと。

私という存在が、存在することへの、「得も言われぬ違和感」。人間と自然との間の超越できない壁が、世界をディストピアとして映し出させる。人間という存在が存在することの「違和感」。

けれども、私の経験を通して、また年をとって思うのは、私という存在、人間という存在への理解、また、理解しようとし続ける意思であり意識さえ持っていれば、その違和感は、自ずと調和されていくのではないかと。

私には、今の社会が、人間が人間の本質を理解している社会であるというようには見えない。

そして、私は、人間が人間を理解するときの鍵は、人と自然を媒介する「技術的人工物」にあると捉えています。

技術という点で、私たちはテクノロジーの進化、とくに、インターネットの進化の歴史の中を過ごした世代。

中学生の時にためていたお年玉でパソコンを買ってもらい、その直後に、Windows95が出て、ショックを受けながら(笑)、無料のゲームを電話回線をつないでダウンロードして遊び始め、大学に入れば、インターネットと携帯を学生の誰でも持つようになったような世代。

P2Pの画期的なファイル交換システム(!)で、夜な夜な、音楽データから映像、プログラムファイルまで、世界中の人と交換して、世界中のオタクやアンダーグラウンドの世界が、急激にネットワークして、連携をはじめ、一つの見えない生命体のように蠢き出したような感覚を、京都のボロ屋の中で覚えていました。

それから、ちょうど音楽活動をやめて私がジャングルにこもっている2005年頃、そのアウトサイダーなネット上のネットワークの生命体の躍動がITベンチャーを生み出し、その後、ジャングルから出て社会の洗礼を浴びるべく、会計士となって働いていたときに、「クラウド」という言葉が生まれてきました。

クラウドサーバーの会社の企業価値算定の仕事を上司から振られていろいろ調べてみたときに、そうか、ここに「あの生命体」はクラウドの中に一つの形をなしたのか何かを私は確信しました。

また、1980年代のサイバーパンクが、レイ・カーツワイルから始まったテクノロジカルシンギュラリティというキーワードで「リアルにそうなる」と予感させるようになり、サトシナカモトのホワイトペーパーが2013年に発行されることで、ブロックチェーンも誕生し、その生命体が、分散型でより強固な生命体として活動を始めたように感じられるわけです。

このテクノロジーの力の本質は何なのか。その力を進化の時空に乗せて、現象化・具体化させているものはなにか。

この宇宙や地球を舞台に、ダイナミックに躍動する生命のようであって、はるか遠いところでうごめいているようでありながら、分解すると、身近なたくさんの人たちの思いが結集することで生まれていることがわかるような、不思議なそのなにか。

私は、人間と言語、道具、テクノロジーが切っても切り離せない以上、人間存在をそれ単独で理解することはできず、そのうごめくなにかは、人間存在を含めてた、未だ解き明かされぬあらゆる存在のその存在の姿へとつながるものだと、今はそう思っています。わかりやすく言えば、技術を通して人間が見えてくると。

個々の技術をを超えて、一つの大きな生命体のようにうごめくその力。

けれども、その力は、もしかしたら、この地球と調和していないのかもしれない。地球を傷つけているのかもしれない。ただの人工物なのかもしれない。やはり、どこまでいっても、そのディストピアなのかもしれない。

けれども、そこに何らかの真理が開示されるのかもしれない。テクノロジー、工業化、人工物がもつ、ディストピア的な性質も、そのテクノロジー自体が持つ存在のベクトルから意外な本性が見えてくるのかもしれない。そんな私なりの感覚や思いをまとめていってみたいと思います。

現代のテクノロジーの進化は止められないと思いますし、それがこの時代の必然であり、この人間社会の未来を決めていっている重要なファクターの一つだと思っています。

また、私は、トランステックなどの「意識とテクノロジー」の探求もしていますが、インターネットなどにより人が人生で受け取る情報量の飛躍的に増大することで、人々の意識が進化していっていることも感じています。

こうした考え方は、ケヴィン・ケリーのテクニウムの考え方に通じるものだとおもっていますが、そのことに気がついてからは、テクノロジーへの見方が変わりました。それ以来、テクノロジーの進化に感じる一種の生命進化のような質感に、リアリティを感じるようになりました(ケヴィン・ケリーは心の師匠)。

(その感覚は、子供の頃、未だ出会ったことのない生き物を求めて、野山や川に虫あみを広げた感覚と響くものもあります。)

一方で、アナログな人間が、デジタルなテクノロジーを最適に使うには、塩梅があるとおもっています。今はもしかしたらその塩梅が、いい塩梅になっていない場合が多いのかもしれない。だから、テクノロジーへの懐疑的で批判的な、さまざまな意見が生まれる。しかし、それをまた、いい塩梅にしていくのが人とテクノロジーの進化の方向性なのではないか。

技術と人間の共進化の歴史

一般には、時代を追うごとに進化して賢くなった人間が、テクノロジーを生んできたという、「人間がテクノロジーを生んでいる」というイメージがあると思います。

しかし、実際は、哲学者の木田元氏が言うように、テクノロジーは、人間の理性が育まれる前からあったもので、むしろ、人間はそれに追随する形で進化してきたのではないかと。

人間の理性が技術をつくったというのは実は間違いで、
技術というものは理性よりももっと古い起源を持つ。
したがって、人間が理性によって技術を
コントロールできるというのはとんだ思いあがりではないか。

『技術の正体』(木田元 著)P4 より

これは、まるで、テクノロジーは、テクノロジーとして、人間の理性によってコントロール可能な次元のものではなく、独自の意思を持って、進化するものではないか、ということを意味しています。

このニュアンスが、この日本ではあまり共有されていないのではないかと感じています。

この考え方は、ケヴィン・ケリーの語る「テクニウム」とも通じます。

そこで、テクノロジーの起源を探ってみます。そのために、「テクノロジー」の進化を生み出した「道具」と「言語(神話、科学...)」を見ます。

道具と言語の歴史

現生人類であるホモ・サピエンスは 25万年前に出現したと考えられていますが、意図的に素材を加工し、道具をつくるという行為自体は原人の時代から見られます。

世界最古の石器はアフリカのオルドヴァイ峡谷で発見されたオルドワン石器で、約250万年前のものとされており、ヒト属が少なくとも数百万年前から道具を使用していたことがわかっています。

コペンハーゲン王立博物館の館長だったクリスチャン・トムセンは、収蔵品を石・銅・鉄に分類して展示することを思いつき、そこから人類は石器時代から青銅器時代を経て、鉄器時代に至ったとする三時代区分法を提唱しました。

一時は三時代区分法が世界に共通するものとされましたが、石器から鉄器時代に移行するなど、三時代区分に適さない地域も存在することもわかってきています。それでも全体としては、石を道具にしていた人類が、さらに手を加えてナイフとして使用できるまでの精度に高め、やがては金属を加工するようになったことは事実です。

一方で、言語の歴史についてはせいぜい数千年しか遡ることができません。なぜなら、文字(らしきもの)の刻まれた文物は、せいぜいが6000~7000年前程度のものだからです。

そこで、音声言語の使用を可能にする生物学的な構造・機能の発現を進化史上にみる脳科学的・解剖学的な研究が行なわれています。

たとえば、類人猿には喉頭嚢という器官が存在しているため、人間のように単一で明瞭な周波数を持つ声を発することができません(そのため、手話によって人間と会話したゴリラのココも、とうとう「ありがとう」としゃべることはできませんでした)。このように、言葉としての音声を出すことができるかどうかはある程度、解剖学的に判別ができるとされます。

言葉としての音声を発音するために必要な声道や喉頭の構造は、二足歩行の開始によって生まれたとする説があり、絶滅したネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)も解剖学的には言葉を発した可能性があるとする学者もいます。

ネアンデルタール人はヒトのように言葉を話すことができたのか?   https://gigazine.net/news/20190613-did-neanderthals-speak/

実際のところ、ネアンデルタール人に関しては、身体的には言葉を話すことが可能な器官があったとしても、脳の構造が言語を話すのに十分なほど発達していたかについて疑問視する声もあります。とはいえ、現生人類となるホモ・サピエンス以外のヒト属が言語を話していなかったと言い切ることもできてはいません。

人間が突然言語を話すようになったのか、数千年かけて言語が発展してきたのかはわかりませんが、ホモ・サピエンスが他のヒト属と共有されない独自の行動をとるようになったのは今から7~5万年前とされています。

より洗練された道具を作成し、それを発展させていったホモ・サピエンスは、その製法を子孫に伝えるため、そのころには言語を話していたのではないかと考えられています。

このように、言語と道具の発展ははるか昔から密接に関係していたと思われますが、それがさらにテクノロジーとして進化することになったのは、産業革命以降の大きな流れによるものです。

テクノロジーの正体

かつては 「technology 」という語は英語でも一般的ではありませんでしたが、20世紀に第二次産業革命が起こって以降、その使用が顕著になると同時に、その意味に変化が起こりました。

「technology 」はドイツ語の「Technik」という概念を元にしていますが、それは機械などの人工物のほかに、人間自身が持つ特別な能力や肉体的なスキル、あるいは知識そのものを指す言葉で、もともとその主体は人間にありました。

しかし、20世紀以降、英語の「technology」とは、ある目的のための知識や方法論、あるいはそれらの知識を用いて開発された機械や道具、製品そのもの、そしてそれらを使うためのスキルを指す用語となりました。そしてコンピューターソフトウェアやビジネスの手法なども含め、人間の能力や働きを何らかの形で外在化した手段を広く意味するようになったのです。

そして、人類は今、テクノロジーが人類を人類たらしめているということに気づきはじめています。

その理由のひとつは、2045年に起こるとされるシンギュラリティへ向け、デジタルなテクノロジーが進化を続ける中で、AI など外在化されたテクノロジーと人間が正面から対峙することを想定する必要が出てきたためです。

AIによって人類が危険に晒されるかもしれないという声がある一方、その進歩が止まることはないと誰もが知っています。今、人類はテクノロジーの意味を問う必要に駆られています。

木田元氏は『技術の正体』で、「人類の理性が科学を産み出し、その科学が技術を産み出した」という一般論は逆だと指摘し、次のように述べています。

 むしろ技術がはじめて人間を人間たらしめたのではなかろうか。原人類から現生人類への発達過程を考えれば、そうとしか思えない。火を起こし、石器をつくり、衣服をととのえ、食物を保存する技術が、はじめて人間を人間に形成したにちがいないのだ。
 こうした技術に助けられて、その日暮らしの採集生活が可能だった熱帯・亜熱帯地方を離れ、寒冷な中緯度地帯に進出することのできた原人が、明日を生きるために今日から準備しておかねばならない生活のなかで、その時間意識にいわば過去や未来といった次元を開くことになり、こうしてはじめてホモ・サピエンスになりえたのだからである。

そして木田氏は、人間の理性が技術を作り出したのだから、理性によってコントロールできるという考えは「倨傲」であり、理性よりも「古い由来を持つ」技術を安直に捉えることを批判しています。

ハイデガーは『技術への問い』の中で、技術によって人間が自分自身を見失う危険性があると指摘しています。ハイデガーは現代技術は真理を明るみに出すものではなく、むしろ存在の真理を隠蔽するものであり、現代技術は自然を有用性という観点からのみあらわにさせているとします。そして、こうした技術のあり方が人間を真理のみならず、自分自身をも見失わせているため、技術はそれ自体が危険なものであるといいます。

しかし、同時にハイデガーはギリシャ語のテクネー(技術)が芸術をも含んでいたことを指摘し、技術(芸術、とくに詩作(ポエジー)) が人間を救うものでもあると書いています。

はたして、現代のテクノロジーには人類を救う力があるのでしょうか。

また、木田氏の言うようにテクノロジーが私たち人間とは別のベクトルを持って進化するのであれば、今ここで技術のベクトルと、人間の進化との関係性を整理しておく必要性があります。さらには、それが整理・理解されることで、ハイデガーが言うように「人間を救うもの」となりうるのではないのでしょうか。

生命進化ベクトルと技術進化ベクトル

現代の具体的なテクノロジーとしてまずあげられるのが IoT (Internet of Things:モノがインターネット経由で通信すること)です。これから 5G の導入と連動して、電気製品などすべてのものがネットワーク化し、AI によって制御・管理される時代となります。

車は自動運転となり、車の運行に関するあらゆる情報はサーバーに送られ、そこで制御されます。もちろんローカルの車の中においても制御が行なわれ、その情報のアップデートがサーバーを通して行なわれます。

それは安全性が人間の手からコンピューターに明け渡されるということであり、概念的にも哲学的にも非常に大きな意味を持ちます。

人間という生命を支え、成り立たせ、存在せしめているものをテクノロジーに委ねるということだからです。

将来的には植物プラントで野菜がつくられるなど、衣食住はよりテクノロジーに依拠するようになるでしょう。

だからといって、一部のSFによくあるような、完全に人工物に囲まれた無味乾燥な生活をするということではなく、生命進化ベクトルにおいて、生命としての進化の中で、その喜びを味わうために農業をしたり、昔ながらの生活をするという選択肢が増えると思います。

たとえば、2019年1月1日の日本経済新聞では「スケッチ2050 わたしを待つミライ」と題した記事で、2050年の生活ではAIやロボットが仕事の半分以上を行い、人々は原始的な生活へと回帰するかのように無人島生活や狩猟が一大ブームになるという話もありました。

スケッチ2050 わたしを待つミライ 1
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/sketch2050/

労働をテクノロジーに任せ、人間は生命進化ベクトルを深めようとするでしょう。そして生命の安全性・継続性、心地よさ、活動の効率性・経済性、平等性、秩序といったものをコンピューターに任せるようになるでしょう。それが技術進化ベクトルのひとつの到達点なのです。

これから、SFの世界で語られてきたテクノロジーが次々と実現していきます。

SFの世界ではすでにさまざまな概念・ビジョンが描かれてきましたし、ロボットや宇宙旅行、空を飛ぶ車やタッチスクリーンはすでに実用化されています。そして、近未来においてはさらにSF的な世界が実現するだろうと日経新聞が予言するようになったのです。

こうした技術の進化が導く先にディストピアを見出す人もいますが、そうした意見に対しては、技術の正体の理解(それ単独での進化の力)とテクノロジーとの調和が鍵であり、テクノロジーの本来の意味を知ることが必要であると私は考えています。

そして、この進化ベクトルの調和を生むものが、「人間の精神性」であると私は考えます。

テクノロジーは、人間の精神が注ぎ込まれることで生まれる

テクノロジーについて見ていくと、このようにテクノロジーが人間の精神性と密接に絡み合っていることが分かります。

ところが、一般的には人間の精神性とテクノロジーが両極に対峙し、真逆に存在しているように捉えられているのではないでしょうか。

けれども、あらゆる道具・テクノロジーは、人間の精神が注ぎ込まれることで生まれています。とくに産業革命よりも前の時代はそのことが如実に現れていました。「手」によって生まれるそれは、その作り手の精神の結晶そのものなのです。

ところが現代では、大量生産の中、工場が生み出す無機質な物としての道具に成り下がっています。

けれども、例え大量生産品であろうと、そこに関わる人々の精神やスピリットがなければ、あるいは魂を込めなければ、プロダクトは生まれません。

日本はものづくり国家といわれます。私は、プロダクトやサービスの開発の仕事をしているので、仕事を通して日本の職人の技、技術力の高さを実感することが多いのですが、どの方にも共通しているのは、そこに精神性を深く感じるということです。

精神性は感じないけれども素晴らしいプロダクトや職人さん、というものには出会ったことがありません。必ずそこには注がれ続ける精神があるのです。

技術の精神性とは

一方で、そこにある精神性は、メディテーションや修行、あるいは何らかの宗教をしているがゆえのものとは、その質感が大きく異なる感じがしています。

その「感じ」がとても重要なのではないか、と最近とくに思っています。

それは、精神というものが、外部からの働きかけによってつくられるものではなく、内発的な意欲、記憶、思い、信念によって生まれるものである、というところにあるからではないかと。つまり、何かトレーニングをしたり、誰かに導かれることによって得られる次元のものではないと感じるわけです。

そのため、彼らの精神性からは、非常に人間らしい、泥臭いものでありながらも、美しく、究極的にはどんな構造物やテクノロジーよりも精緻で洗練された質感を感じるのではないかと。

私が出会ってきたあらゆる優秀なエンジニアや職人に一貫して感じ取ることができるもの。その精神性がテクノロジーを生んでいると私は感じています。

そして、エンジニアや職人に限らず、何事においてもこの話は通じており、その精神性がこの社会をつくってきたと思うのです。これまでにいろいろな宗教、思想、哲学が生まれてきましたが、根底に流れるのは今お話した精神性だったのではないでしょうか。

人間の精神が結晶化したテクノロジー

そして今、その精神性というものが、テクノロジーの進化により表に浮上してきています。この浮上こそが、シンギュラリティーと言われていることの背後にある本当の意味ではないかと思うのです。

いつの時代もテクノロジーは、そこに精神を注ぐことで生まれてきました。人間の精神と理知を注ぎ、具現化したものがテクノロジーであって、テクノロジーとは人間の精神の結晶なのです。

この視点からテクノロジーを見るならば、宗教や精神世界での探求よりも、テクノロジーを通した精神についての探求の方が地に足がついたものではないかとすら思えてきます。

それは、道具、テクノロジーが唯一人間の精神が外在化したものであると言えるからではないかと。「人間の精神が結晶化するテクノロジー」という構図については、次のような見方ができます。

さまざまなテクノロジー、道具、プロダクトは一朝一夕にしてなるものではなく、日々の鍛錬と継続した努力が必要になります。

現代において、デジタルな世界に身を投じると、「時間がゼロ化する」という感覚に苛まれる、と私は考えています。

一方で、それが生み出したものがデジタルなテクノロジーであろうと、一朝一夕にしてはならず、時間の蓄積と継続と、時間軸に蓄えたエネルギーが結実することによって生まれるものです。

時間軸への情報や、思い、意識の蓄積の結晶がテクノロジーなのです。

それがなぜ、「精神を注ぐ」という感覚へと繋がるのか。

それは、人間が時間軸に思いを注ぐことでまさに生まれるものが精神だからです。

健全な精神を蓄積するため、昔であれば、「道」とつく武道・茶道・華道といったものを学び、その「道」の中で精神を養いました。この「道」が、まさに時間軸を意味するのです。

時間の流れの中にその情報を蓄積することで、精神は養われました。それがモノとして結晶化したのが道具であり、テクノロジーなのです。

この時間軸に注がれる精神の結晶としての技術の力を感じることができたら、技術進化が生命進化そのものであることが見えてきます。

人類が注いだ精神の総量が、今のテクノロジーを生んだ。そして、その精神は、人間の本質そのものではないかと。

けれども、その精神というものが、人間の知性や理性によって(科学によっても)理解される範囲を超えているため、技術、テクノロジーというものの本質が、理解され得ないものとなるのではないかと。

このことに気がつけば、ディストピアだと思っていた世界に注がれてきた人間の精神を感じ、反転して、そこに躍動する生命の力を感じることができるのではないかと。

デジタルテクノロジーによりテクノロジーがグローバルにネットワーク化することで、そこに注ぎ込まれる精神もまた、ネットワークするようになり、
そこに新たに躍動する生命が生まれたが、それもまた、やはり、人間が注ぎ込んだ精神が生んだものなのなのであって、その成長自体が人類の成長ではないかと、そう私には思えてくるのです。

そして、その人類の成長が地球やこの広い宇宙全体と共振共鳴して紡がれていっているという思い(妄想)へと発展します。

そう、すべての人工物の裏にある、人間の精神の躍動を、感じてみよう。そうすれば、ディストピアが反転し、きっと、生命の光として輝き出す。その光に、未来をみようじゃないか。

おわり

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