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消えないサンドイッチの具、白いベールと永遠を〜リップヴァンウィンクルの花嫁〜

彼女だけが手にしたレモンサワーが浮いていて、それはあまりにも儚く孤独でそこにいた。ほかのニセモノ家族たちはビールを手に乾杯する。不揃いな乾杯が響く、結婚式のあとの夜。

新宿から歩いて10分、坂を登ったその先で開かれたのはシネマ食堂。岩井俊二監督(脚本)作品の「リップヴァンウィンクルの花嫁」が上映された。

(以下、映画のネタバレを含みます。そして映画の描写と掛け合わせた言葉えらびをしているのでご了承ください)


紫キャベツが裏切るスパイシーな前菜からは、東京の表面のつめたさを感じたり。するするとすり抜けるサラダは、頑張ってもうまくいかない空回りのようで。

ロールキャベツは憎いほどに柔らかく、ジューシーで愛おしい。思い切ってナイフをいれるとあふれる肉汁が、溜まりに溜まった我慢を解いていくようだった。

スイーツの顔をした主役のスコーンは、涙の味がした。表に立つということは涙を見せないということよと言わんばかりの味は、あまりにも切なく迫る。

いちごとベリー。一緒にされて、片方が食べられてしまう前に固められたゼリーが戦いの終わりを告げる。もう頑張らなくても大丈夫、きっと。そんな声をかけながら最後の一口を流し込む。


永遠というものは、白いベールをかぶっているのだろうか。いいえ、一度永遠を誓った彼女の愛は散り、二度目に着たドレスの方が似合っていたように。想像をこえる未来が、過去とのちぐはぐが、正解を導いたりする。

主人公が無心で頬張るサンドイッチを見て思う。なにもかもを閉じ込めて、なかったことのように飲み込みたくてミックスサンドを買って。チープなそれを食べると味がする。そう、どんなに辛くても味がすることに泣けてしまう日があることを、わたしは知っている。

レモンサワーの孤独の謎は、映画の終盤、お葬式のシーンで解決する。彼女が旅立ち、そして主人公以外のニセモノ家族は「家族」として前へ立つ。彼女はふつうに中に居て、傍観している。彼女はニセモノの家族にすらなりきれず、でもそれは自立しているということ。

彼女だけがあの日演じたニセモノ家族からちゃんと旅立ち、前へ進んでいたということかもしれない。そうだといい、と思う。

大きな食卓を囲むと、家族になったかのように思う。わたしたちもニセモノ家族、かしら。ありあわせで揃えられて、机を囲んでいるのかしら。

いいえ、わたしたちは自分の足でここへ来て、シネマ食堂という時間を選び取った。同じ意志を持ち、同じ時間を共有したというのは立派な「家族」と呼んでいい。だって、もし次にこういうことが起こったらきっとわたしはこう思う。

「ああ、ここに彼らがいればもっとたのしいだろうな」

それはきっと、家族と呼んでいいはずなのだ。

迫る心臓の音はレモンサワーを装って、喉を通ると梅の味がした。人生はときに仮面をかぶって現れる。でも、どちらも愛おしい。

最後に、最高の土曜日の夜をくださった二人へ。変わらぬ愛を込めて、そしてみなさままた会いましょう。口を少しずらしながらウィンクをしたら、きっと魔法がかかる。白いベールをかぶって、永遠につづくシネマがそこにあるでしょう、きっと。


読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。