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何も起こらないことの残酷さ 『タタール人の砂漠』

アニメを見ているときや漫画を読んでいるとき、主人公や主人公の親友ではない脇役の人たちはこのファンタジーな世界の中でどんな生き方をしているのかな、とふと考える時があります。
主人公は生まれつき特別な能力を持っているか特別な家系出身だったり、突然冒険の旅に出ることになったり、彼の人生にはドラマチックな展開が立て続けに起こるのだけれど、そうじゃない人たちは何をしているんだろう。


『タタール人の砂漠』の主人公ドローゴは絶対にアニメや漫画の主人公にならないタイプです。普通なら目にも止められない脇役と言えそう。特別な能力もなければ、特別な容姿でもなく、特別なことも起こらない彼の人生。でもそれは同時に、超能力もない、実は父親が世界一のハンターでもない、不死身でもない、巨人にもなれない、私たちの物語でもあるのです。


荒涼とした砂漠の砦を舞台に、作中ほとんど全くと言ってよいほど何も起きません。それなのに、すごく面白い本です。こんなに何も起こらないのに全く飽きさせず、目が離せなくなる本は初めてです。
何も起きない時間の中に人生を描ききるような物語が生まれる、そこがこの小説の素晴らしいところだと思います。人間の心の機微に繊細な目を向けている筆者の緻密さに圧倒されるのです。ドローゴを通し、忘れ去られていた感情が丁寧に掬い上げられ蘇ります。砦に勤務する兵士の話なのですが、誰の人生にも訪れるような選択や葛藤、惰性、後悔、見栄、集団に所属すること、変わりたいと願いつついざ変化の瞬間が来ると尻込みしてしまうこと、諦めと諦められない気持ちなど、その心情にはどこまでも普遍性があります。
ブッツァーティは本当に人をよく見ている作家です。


夢も叶わない、英雄にもなれない人生の浪費がこれでもかと丁寧に描かれ、何も起こらないことのあまりの残酷さには打ちのめされるほどの共感を覚えます。
しかし湿気のない、陰湿さのないカラッとした文体は悲壮感を与えず、不思議と哀しくはなりません。ただただ潔い、まさに人生の縮図と言える一冊です。



『タタール人の砂漠』  ディーノ・ブッツァティ著

あらすじ
士官学校を卒業し、国境にあるバスティアーニ砦へ向かう若き将校のドローゴ。軍人としての出世を夢見て任務へと赴くが、そこは無用の長物として世間から見放された砦だった。


初めて読んだのは今から2年前。その時はこんなことを書いていました。
先日カズオ・イシグロ著『日の名残り』を読んだ時に久しぶりに『タタール人の砂漠』読み返したくなりました。似ている作品とは言えませんが、これでもかと書かれる人生の取り返しのつかなさに儚い一片の希望の光が差し込む読後感には似たものを感じます。
改めて読み返してみると、初めに読んだ時よりも一層この本が好きになりました。

1度目はドローゴのようになってはいけないと、教訓めいたものを探して読んだけれど、2度目は時間の浪費でしかなかったと言えるドローゴの人生に残酷さと哀愁だけではない、何かそれでも人生を肯定したいという気持ちを抱きました。


2年前よりも人生に対する期待が少なくなったのかもしれません。というとすごく否定的に聞こえるかも知れませんが、見えないものを無責任に夢見て期待するよりも、現実にいま生きているこの時間や場所を面白がることの積み重ねへと意識が向くようになった、という感覚です。

少し前までは、何かを達成することや何者かになることに重きを置いていました。だから夢を聞かれた時の答えは「〇〇になる」という答え。でも今は”どういう状態にありたいか”ということの方に興味があります。

〇〇になる瞬間よりもそこに至るまでの過程の方が長く、〇〇になってからも普通の日々は続く。夢を叶える瞬間よりもそれまでとそれからの方が長いことがだんだんと実感を共なって分かってきた今日この頃で。それなら何かになる瞬間を夢見るのではなく、そこへ至るまでの過程に面白さを見出す方が人生の楽しみが増えるのではないか、と指向が変わってきたのです。
だからドローゴの人生に対する印象も変わってきたのだと思います。

果たして幻想を抱き夢に賭けたドローゴは愚かだったのか、それとも時の運がなかっただけなのか。ドローゴの人生は間違いだったと私たちに言えるのでしょうか。
人生とは結果の分からない決断の連続です。



きっとこの本は、これから何度も読み返す本になるでしょう。
40歳、50歳、60歳と歳を経て自分がどのように感じるか、それが今から楽しみです。
自分の姿は自分では見えないから、姿を写す鏡が必要です。同じように自分のことを理解したいときにも、鏡のような何かが必要ではないでしょうか。
ドローゴの人生に我が身を写すことで、見えてくるものがあると思います。


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