春尽く知らせとぬるい梅雨
ついにこの日がきてしまった。
いつかこの日がくるということは、
ずっと前からわかっていた。
わかっていたはずなのに、わたしは彼のその言葉が
耳に届いたその瞬間から、すっぽりと何かが抜け
落ちて、身体の中身が空っぽになってしまったような
感覚に陥った。
「実は、俺。結婚することになりました。」
それは、飲み会でひと盛り上がりして、さてそろそろ
お開きにしようか、とみんなが立ち上がり始めた
タイミングで突然降りかかってきた言葉だった。
束の間、その場にいた全員が硬直する。
その後徐々に氷が溶けていくように、みんながその
言葉の意味を理解して、口々に、「おめでとうござい
ます!」などと祝福の言葉を送った。
わたしは、彼が、「実は」と言ったあたりで、
なんとなく、ああ、ついにきた、と思った。
思ったけれど、やっぱり、思うのと実際に聴くのと
では訳が違って、その言葉には、わたしの頭を
しばらく麻痺させるほどの、重みと衝撃があった。
重くて大きな鐘を木の棒で突いたときのような、
どーんという鈍い音とともに、わたしの脳裏にも、
その鈍い痛みだけが残った。
結婚。
それはわたしにとって、今度こそ本当の意味で、
長年仕舞い込んできたこの気持ちの終わりを
意味していた。
その日はちょうど梅雨入りの日で、もう全てが嫌に
なるくらい湿度の高い、じっとりとした夜だった。
突然訪れた終わりの知らせは、わたしに鈍い痛みだけ
を残し、水分と一緒に空気に溶けて、わたしの身体に
まとわりついて離れなかった。
あの爆弾発言から、数日。
今日はここ最近の暑さがどこかに行ってしまったかのような涼しさで、もはや肌寒いくらいだった。
そして朝から、怒ったように大量の雨粒がコンクリートをひたすら打ち続けていた。
「今日、もう1人呼んでいい?」
今日は先輩の送別会で、わたしが飲み会の予約人数を
聞くと、彼はそう口にした。
特にその内訳を聞かずに、はいわかりました、とだけ
答えて席を立とうとすると、「俺の相方を連れて行こうかと思ってさ」と、いつものあの、いたずらを思いついた時のような無邪気な笑顔で、あははと笑った。
微笑を返して、席を立つ。
冷静なふりをしていたけれど、実際は、これって
まさか、そういうこと?と、急に頭から冷水を浴びせられたような気持ちになった。
お店に着いたら、その人は、彼の隣に座っていた。
一番最初に思ったのは、「へえ、こういう人が、好きなんだ。」という感想だった。
肩の下まで伸びた、ふんわり波打つ茶色い髪。
くるんとカールした、漆黒の長いまつげ。
桜色に色づいて、つやつやと光を放つぷっくらとした唇。
上品で、家庭的で、控えめな、女性らしい人、という
印象だった。
正直、イメージと、真逆の人だった。
一言で言うと、かなり、綺麗な人だった。
わたしの挨拶に対して、「はじめまして。いつも、この人からお話は聞いてます」と微笑む彼女は百合のようで、やわらかい印象を与えた。
空いている席が彼女の正面だったので、仕方なく、
わたしは彼女の前に座る。
こういう人が好きなんだ。
彼女の髪や腕の白さを横目で見ながら、そればかりが
頭を巡る。正面に座ったものの、なんとなく、彼女を
直視したくなかった。
もっと、アクティブで凛々しくて、彼と対等に渡り合える、友達みたいな好敵手みたいな、バリバリのキャリアウーマンを選ぶと思っていた。
でも、彼女は、その真逆だった。
みんなで話している時は基本聞き役で、にこにこ
微笑みながらうなずくだけ。
少食なのか、パスタをほとんど残してつんつんと
横の彼をつつき、お皿をすっとスライドさせる。
対してわたしは、少しでも彼女よりこの空間で彼と
言葉を交わしたくて、隙間を言葉で埋めつくした。
そして、パスタもカレーもぺろりと平らげて、
まだまだ食べられるのにな、と思いながら、
スライドされたパスタを勢いよくかき込む彼と、
その横で「ありがと」とささやく彼女を見ていた。
何もかも、わたしのイメージと違った。
彼女は、彼がいないと生きていけなさそうな、か弱い
小鹿のような人だった。
どうして、この人なんだろう。
彼の態度が普段とあまり変わらないからこそ、
余計にそれがわからなかった。
「彼女を人に紹介したの、今日が初めてなんだよ」
そう言って、いつものように豪快に笑う彼に、嬉しい
ような腹立たしいような、複雑な感情が渦巻く。
その感情を、丸めて思い切り投げつけたくなる。
「この人、いつもあなたのお話してるんですよ。
本当にしっかりしてて、いつも助けられてるって」
困ったように笑う彼女はとても可憐だったけれど、
わたしにはその表情が、どうしても牽制とか優越感とか、そういうものを纏っているような気がしてやけに
落ち着かなかった。
「迷惑かけてない?もうちょっと、しっかりしないと
だめだよ?」
彼女がまた、笑いながら彼の腕を横からつつく。
いつもと全く態度の変わらない彼は、
「いやあ、いつも助けられてるよ、ほんとに。
これからもよろしく」と、呑気に笑っている。
もう、だからそれがだめなんだってば、と口を尖らせる彼女を見ないようにして、わたしは炭酸のきつい
レモンサワーを一気に流し込んだ。
「まさか、こんな日がくるとは思ってなかったですよ。本当に、おめでとうございます。」
全く思ってもないことを口にして、目を合わせずに
乾いた笑いを2人に返す。
…いや、全く思っていないことはないのだけど。
どうしてもわたしは、まだ実感を持てずにいた。
本当にこの人が、彼と結婚する人なのか、と。
今回もまた、「やっぱり結婚やめたわ〜」なんて
言って愉快そうに笑い飛ばす彼がまた見れるんじゃ
ないか、なんて、最後まで無駄な期待を捨てられなかった。
彼はずっと仕事一筋で、何よりも自由を愛する人で
いてほしかった。
少なくとも、わたしの前では。
だけど、彼がしきりに「本当に、この子はいい子で、
優秀なんだよ。」と彼女に向かって言う姿は、今まで
あまり見たことがなかったし、素直に嬉しかった。
わたしの知らないところで、わたしのことを思ってくれている。たとえそれが、彼女といる時だったとしても。
そのことは何よりもわたしを安心させたし、
彼の笑顔や言葉は、やっぱり嘘がなくて純粋で、
少しだけ冷えたわたしの心を、しっかりと温めた。
お店を出る頃には、もう雨は止んでいた。
気づいたら、なんとなく、彼とわたしが隣を歩く
形になっていた。
それだけでもう、今後のことを考えると充分幸せな
瞬間だったけれど、婚約者がいる前でさすがにこれは
よくないかも、と思い直し、気づかれないように、
水溜りを避けるふりをして自然に彼との距離をあける。
「来月、あいつの大阪出張ついてくの?」
「えっ、なんですかそれ、聞いてないです」
わたしの先輩が大阪出張に行く、というのを初めて
聞いて、いいなあ、と呟くと、
「じゃあ、今度一緒に福岡行こうよ」
平然とした顔で提案してくる彼に、
「行きたい。行きます!」
と、思いがけず大きな声が出てしまう。
彼女の耳に届いているのかいないのかはわからない
ふりをして、彼とわたしの関係性は、もしかすると
結婚しても何も変わらないのかもしれない、という
ことに、わたしはこっそり安堵する。
職場の関係とプライベートは違うんだから当たり前、
と言われたら当たり前なのだけど、彼が結婚して
しまうことで、何かが変わってしまうんじゃないかと、わたしは少し不安だったのかもしれない。
さすがに2人で出張はどうなんだろう、と逆に心配に
なったけれど、「福岡、おいしいものたくさんあるからね。色々食べに行こう」と言って食べ物の名前を
並べ始める彼があまりにもいつも通りで、本当に子供
みたいで、この日はじめて、わたしは心の底から笑う
ことができた。
「楽しみですね」という返事も、今日口にした
言葉の中では一番、真実に近い言葉だった。
「あ、じゃあ俺たちはこっちだから。今日はありがとう。ゆっくり休んでね」
片手を挙げて言う彼の隣にぴたりと寄り添って、
控えめに手を振る彼女は、やっぱりわたしにはまだ
見慣れなくて、夢を見ているような光景だった。
けれど、わたしが知っている彼は、きっとこの先も
同じ、彼のままだ。
それがわかっただけでも、今日は、来てよかった。
「あっ。また雨、降ってきたね。じゃあ、気をつけて!」
彼が差した大きなビニール傘に彼女が入るのを視界に
入れる前に、わたしはくるりと踵を返して歩きはじめた。
彼はもうじき引っ越すと言っていたから、もう、
この道を一緒に歩くことも、ないんだろう。
そのことは、ほんの少しだけわたしの心を冷やした
けれど、そんなものがなくなったところで、彼がくれるあたたかさは、きっと何も変わらない。
すぐにまたあの無邪気な笑顔を見たら、忘れてしまうのだ。
「福岡行ったら、何食べようかなあ」
彼の言葉を真似して呟いてみる。
福岡に行く頃には、季節はもう、すっかり夏になって
いるのだろうか。
厚い雲に覆われた梅雨の空を見上げて、わたしは自分
1人分サイズの傘を開く。
ぬるい雨の匂いがする。
梅雨はまだ、始まったばかりだ。
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