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すべてを夏のせいにして


告白された。思わぬ相手から。

それは突然のできごとだった。

さっきまで、出会ったときと全く変わらない

距離感で世間話をしていたというのに、気づくと

そこにあったはずの距離はもうなかった。

何も考えられないまま、わたしは

その人の腕の中に、呆然と収まっていた。

じっとりした汗が張り付く、暑い夏の夜だった。


「どんな人がタイプなの?」

「今までどんな恋愛してきたの?」

思い返せば、恋愛の話題は多かったような

気がする。だけど、それはわたしにとっては

ほとんど意識するまでもないような日常会話で、

だから、全く気づかなかった。

その人の好意がどんな種類のものなのか。

いや、気づこうとしなかった、というほうが

ほんとうは正しいかもしれない。

彼を諦めて、まだ傷も治りかけだったから、

今は、愛や恋とは全く関係のない、

安全なところにいたかった。

だからずっと、見ないふりをしていた。


周りから言わせれば、その人には逃したら

惜しいくらいの地位があったし、優しくて

賢くて、面倒見もよく穏やかな人だった。

友人たちは、いい人だねと口を揃えて言った。

たしかに、その人は「いい人」だった。

でも、それ以上でも、以下でもなかった。

それは、目の前を流れる川のように、

ただ、さらさらと流れる感情でしかなかった。


ぐるりと巻きついた腕に、力が入る。

そのときはじめて、ああ、今わたしはこの人に

告白されたんだっけ、ということを思い出した。

「帰したくないな。」

耳元で小さな呟きが漏れる。

今のわたしにとって、それはただの

音でしかなかった。風や水と同じ、音。

触れられて、あ、意外と大丈夫だな、とは

思ったものの、それに対して、

わたしの心は驚くほど動かなかった。

かろうじて、心臓は音を立てていた。

けれどそれはただの生命の運動でしかなかった。

目の前のその人の行動すべてが、まるで

自分がいる世界とは別のところで行われている

ような、そんなはてしなく遠い感覚の中にいた。

そのとき、わたしの心は、そこにはなかった。


「返事は、今じゃなくていいから。」

その人は優しく微笑む。

きっと、これはこの人にとって最上級の

微笑みなんだろうな。

そのことだけは、なんとなくわかった。

でも、その微笑みも、今のわたしには、

顔の筋肉の、小さな動きでしかなかった。

返事。

わたしは何て言えばいいんだろう。

何を考えればいいんだろう。

何も考えられなかった。

考えたい、と思えなかった。

朦朧とする意識のなかで、ただひたすら、

眼下に流れる暗い川の水音を聴いていた。


あ。

そのとき、何の前触れもなく、

わたしの中にひとつの感情が落ちてきた。

それはあまりにも唐突なできごとだった。

さっきまで空っぽだった心のなかで、

その感情はみるみるうちに成長を遂げた。

会いたい。彼に会いたい。

今、この瞬間。

この夜風のなか、ふたりでこの道を歩けたら。

考えはじめたら、とまらなくなった。

わたしの心は完全に、彼のところに動き始めた。

「帰らないと。」

駅までの道は、ほんの数分だった。

心がどうしようもなく、急いていた。

「気をつけて帰ってね。」

その言葉に曖昧に笑って、走り出した。

これからどうするのか、自分が何をしているのか

自分でもわからなかった。

でも、彼に会いたい、と心が強く

願っていることだけはわかった。


もう会わないと決めたのは自分のほうだった。

会いに行っても会えるはずなんてなかった。

ことの一部始終を友人たちに話したら、

きっと呆れられるんだろう。

あんなにいい人だったのに。何してるの、

馬鹿なの?そう責められるのが目に見えている。

でも、それでよかった。

それがよかった。

わたしは理性や世間体で感情に蓋をできるような

器用な人間じゃなかった。

そんな人間だったら、もうとっくに

幸せになっている。

もう、誰とも結ばれなくていい。

どっちを選んでも幸せになれないのなら、

この感情が尽きるまで、彼を想っていたほうが、

ずっとましだ。

強がりじゃなく、本心で、そう思った。


わたしはただ、この夏の暑さのせいで、

うなされているだけかもしれなかった。

自分がどれほど馬鹿なのかということは、

充分わかっていた。

でも、それもきっと、夏だから。

そう思うことにした。

この季節が過ぎたら、きっとほとぼりも冷める。

だから今だけは、この夏の暑さに身を任せよう。

そう無理やり正当化して、走った。

目の前は真っ暗で、何も見えなかった。

それでも今が、一番幸せだと思った。


好き。


その純粋な感情が自分の中に流れてゆくのを、

全身で感じながら。

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