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さようなら、恋した時代の言葉たち。これからは、新たな言葉と生きていく。


「誰かに恋していること」がアイデンティティと言っても過言ではないくらい、恋愛中心の人生を送ってきたわたしは、いつの間にか大人になって「恋する自分」を卒業していた。


それと同時に、心が動く文章が書けなくなった。


文章を書くこと自体は、ずっと続けている。だけど、あの頃のように身体の内側から言葉が湧き上がってくるような感覚は、しばらく抱いていない。

頭で考えて文章を書くことはできても、それは今までのような「自分らしい文章」ではないような気がしていた。

「恋する自分」を卒業したのは、1年前に恋人ができたから。彼との出会いは、わたしの恋愛人生に終止符を打った。


だけどー。


わたしは幸せと引き換えに、自分の言葉を失ってしまったのだろうか?

ようやく手にした穏やかな日々に安堵しながらも、わたしはずっと、「自分の言葉が戻ってこなかったら、どうしよう」という不安を感じながら過ごしていた。




***



26歳になるまで、わたしはずっと「客観的に見ると、不幸な恋」ばかりに夢中になっていた。

好きな人にはいつだって、自分以外に好きな人がいる。それを知るのはいつも沼に両足を突っ込んだ後で、無傷で引き返せたことなんて一度もない。

友人たちに「そんな人、やめときなよ」とどれほど忠告されても、一度好きになってしまうと、相手から強制終了されるまで尽くすことをやめられない。

挙げ句の果てには、優しくて誠実な恋人ができても「この人とずっと一緒にいていいのかな……」と迷い始め、相手の優しさに応える自信がなくなってしまい、自ら手放す始末。

そんなことの繰り返しで、26年間、「常に100%幸せにはなりきれない自分」がいた。




ただひとつ厄介だったのは、わたし自身がそんな自分に対して「自分は不幸だ……」なんて思っていたわけではなく、むしろ

「恋をしている時が、人生でいちばん楽しい」

と思っていたことだった。



わたしの言い分としては、恋をしている時はいつだって感情の振れ幅が大きくて、生きている心地がした。嬉しいことよりも苦しいことのほうが多かったけれど、そういう時ほど自分の心から出てくる言葉に出会うことができて、安心した。

そんな自分をふと客観視した時に、「わたしはいい文章を書くために、あえて不幸な恋をやめないのでは……?」と疑いたくなることすらあった。

それくらい、わたしは「自分の心が動くこと」と、「その感情にぴったり当てはまる言葉をみつけ、表現すること」に、生き甲斐を感じていた。





だから、彼と付き合いはじめて自分の書く文章がなんとなく「ぼんやりしているな」と気づいてからは、徐々に焦りと不安を感じるようになっていた。


変わったのは、たぶん恋をしなくなったから。


もちろん、完全に恋をしなくなったわけじゃない。彼が新しい服を着て待ち合わせ場所に現れるとドキドキするし、今まで何百回も「かわいいよ」と言ってもらっているのに、いまだに嬉しくてにやけてしまう。わたしは彼に、恋をしている。

だけど「感情の振れ幅」は、当時と比べると確実に小さくなった。

先行きのみえない恋ばかりしていた今までは、毎日ジェットコースターのように感情が上下していた。時にはレールから外れることも、振り落とされることもあった。

それに比べて、今はレールから外れることもなければ、振り落とされることもない。安全安心な日々。

彼に対して「愛おしいな」と思う気持ちは日々募っているし、これからの人生について語り合っている時の高揚感や心強さは、今までに感じたことのない感情だ。反対に、お互いぶつかり合って、深く沈み込むこともある。

けれど、それらはわたしが今まで身を置いてきた環境と比べるとあまりにも穏やかで、ありがたいくらいに平和な毎日なのだ。






そんな日々に、物足りなさや不満を感じたことは一度もない。

複数の相手に恋をするよりも、たったひとりの相手と愛を育んでいく方が、よっぽど難しく刺激的で、尊い作業だなあといつも感じている。

だけど、時々ふと思い出して1年前までの文章を読み返している時、「わたしはもう、この先こんな言葉を紡ぐことはできないんだろうな」と思わずにはいられない。

それは、切なさと安堵の混ざったような、複雑な気持ちだった。

誰といても彼を忘れられなくて、今すぐ会いたくて走り出した、真夏の夜。


寂しさを愛情と言い聞かせて、この時間が永遠に続くようにと祈った、雨降りの明け方。


終わりの予感をすぐそばに感じながら、見えるものだけを信じて幸せに浸っていた、深夜2時。

今となっては、なんだか遠い世界のおとぎ話のようで、自分の話じゃないみたいだ。

どのnoteからも、その時の感情や温度、匂いや光が今でも鮮明に蘇ってくる。一つひとつの言葉に触れると心がひりついてしまうくらい、行き場のない切実な想いが、どっと押し寄せてくる。



あの時は苦しかった。だけど、いまは眩しい。



この言葉たちを生み出していたあの頃の自分は、あまりにも必死に生きていて、その姿に打ちのめされる。ネガティブな方向へのエネルギーかもしれないけれど、その熱量は、今の自分が怯んでしまうくらいの強さがある。

今のわたしには、いや、これからのわたしにも、もうこんな文章はきっと書けない。

平穏な世界に慣れきってしまったわたしには、もうこの時のように身を削って言葉を生み出すことは、できない。

そのことには自分でも薄々気づいていて、だけどしばらくそれを認めたくなかった。諦めるのが、怖かった。



この穏やかな幸せの中にいる自分でも、またあの頃のような心に迫る言葉をみつけられるんじゃないかー。



そう思って何度か言葉を探そうとしたけれど、やっぱりみつからなかった。そもそも探している時点で、今のわたしの心には、そんな言葉はないのだろう。






もう自分には、あの頃のような文章は書けない。そう認めてからは、心が少し軽くなったような気がする。



わたしの中で、一つの時代が終わったんだなあ。



最近はようやくそれを受け入れて、現実をまっすぐ見つめることができるようになった。

もう昔のように、突発的な出来事に感情が思い切り沸き立ち、「書かなきゃ」という衝動に駆られて言葉を手繰り寄せ、書き終えたら完全燃焼……みたいな夜は、訪れないだろう。

だけどそのかわり、自分の意思で大事なことに気づき、感じ、ゆっくり咀嚼して丁寧に文章をしたためていく……そういう日々は、続いていくんじゃないかなあと思う。






彼と出会ってわたしは、「波瀾万丈な恋の楽しさ」よりも「穏やかに愛を感じる日々」のほうが、生きていてよかったという実感に繋がっていることを知った。

「複数の人と広く浅い関係性を築く方が、精神的に健康でいられる」という価値観は、「対話を重ねることで、深く自分を理解してくれる人がひとりでもいれば、安心して生きられる」という考え方に変わった。

「もっと他にいい人がいるかもしれない……!」とほかの可能性を考えることはなくなって、「彼ともっといい関係性になるためには、どうしたらいいんだろう?」と常に考えるようになった。

そして最近、実は「自分のキャリア」よりも「家族との時間」のほうがわたしの人生において大切かもしれないと、180°価値観が変わりつつある。



わたしは日々、彼と出会って変わり続けているし、心もちゃんと、動いている。



決して「恋をしていた頃」と比べて感情の起伏が激しくはない日々だけれど、あの頃よりも鮮やかな世界で、小さな幸せを一つひとつ噛み締めながら、瑞々しい日々を生きている。





脇目も振らず、自分の身がどうなるかも顧みず、ただ無我夢中に目の前の恋に全力だった。あの頃の自分がいたから、いちばん大切な人をまっすぐに愛せる自分がここにいる。

あの頃のわたしへ。往生際悪く、諦めずに最後まで恋をしてくれていてありがとう、と伝えたい。そして、ようやくそんな自分を卒業したことを、笑顔で讃えてあげたい。

もうあんな言葉は浮かんでこないけれど、今の自分だからこそみつけられる言葉も、きっとある。

そして、これからの自分にも、その時にしか書けない文章がきっとある。






だからわたしはこれからも、変わることを、何かを手放すことを、恐れずにいたい。


今の自分にしかみつけることのできない言葉を、届けることのできない文章を。


わたしはずっと、この世界に残していきたい。



***

いつか終わると知っている、だけど忘れたくはない恋の記憶を、日々書き溜めたマガジンです。わたしのnoteの原点であり、魂が宿った宝物。

ここに新しい文章を追加できなくなった時は、愛の記録を集めたマガジンでも作ろうかな。



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