思い出したり忘れたりして、明日もきっと生かされている
去年の夏から読んでいた小説を、ようやく昨日読み終えた。
SEKAI NO OWARIの藤崎彩織さんが書いた初の小説で、数年前に直木賞の候補作として話題になった『ふたご』。
こんなにも読むのに時間がかかってしまったのは、読むたびに心のエネルギーを吸い取られ、元気な時でないとなかなか読み進めることができなかったから、というのももちろんある。
けれどそれ以上に、「あの頃」を思い出してしまうことが、ページをめくる手を止めていたのかもしれないと、読み終わってから気づいた。
「セカオワ」が好きだった、あの頃。
人生ではじめての幸せを手にした高校3年生の夏から、絶望の半年間が始まることになった、大学3年生の夏までの3年間を。
少しだけ、思い出してしまった。
高校3年生の夏。
人生ではじめて、好きになった人と「両想い」になった。
付き合う前から毎日していたLINEを通して、彼もわたしもセカオワが好きだということが、ある日判明した。
「受験が終わったら、一緒にライブに行こうね。」
約束して、夏がきて、わたしたちは付き合うことになる。
そして、大学に入学してはじめての夏。その約束が現実になった。
はじめて降り立つ横浜駅、端から端まで人で溢れる大きな横浜アリーナ、ふたりで着たおそろいのライブTシャツ、その後居酒屋で興奮しながら曲や演出について語り合った夜。
すべてがきらきらしていて、夢の中にいるようだった。
わたしは人生で、まさに幸せの絶頂にいた。
大学入学後、わたしはずっと憧れていたバンドを始めて、聴く音楽も周りに影響されてロックが多くなっていった。
一方で彼は、JPOPをはじめとする流行の音楽や、EDMなどを好んで聴くようになり、ふたりでカラオケに行くたび、なんとなく居心地が悪くなることが増えた。
けれど、音楽の趣味が少しずつ合わなくなってきてからも、セカオワだけは2人の共通言語だった。
ライブの開催が決まり、どちらからともなく「決まったね!」「次はいい席だといいなあ」と連絡し合う時、わたしはいつも彼と「繋がっている」ことを確認して、安心した。
そんなゆるやかな幸せに突然終わりがきたのは、付き合ってから3年目の、誕生日の前夜だった。
「今年はどこでお祝いしてもらえるのかなあ」
なんてのんきに考えていた夜、彼からは突然、
「ごめん。今年は、ななみの誕生日は祝えない。」
と連絡がきた。
以前にも、「彼女ができた」とLINEがきて、すぐに「え、どういうこと?」と返事をしたら、「〇〇(共通の友達) に、だよ!」と返ってくるという、笑えない冗談のようなことがあった。
今年はそういうサプライズなのかな。それにしても、趣味悪いなあ。
そんな風に心の中で小さく腹を立てていると、返ってきたのは「ごめん。」というそっけない返事だけだった。
「これは、冗談じゃないのかもしれない……」
少しずつ冷静になって、事態が飲み込めてくる。
血の気が引いて、しばらくぼうっとしていたようだ。
彼のことを、まるで自分の恋人のように気に入っていた母の、
「明日は、泊まりだよね?今年はどこでお祝いするの〜?」
という、やけに楽しげな声だけが耳に残った。
「チケット、取っちゃったから。返金もできないし。」
そんな苦しい理由で、別れを切り出された2ヶ月後、わたしたちは例年通りセカオワのライブに行くことになった。
本当は、返金することはできたと思う。
だけど、そうまでして当時のわたしは、彼を繋ぎ止めたかったのだ。
生まれてはじめて付き合って、ほぼ毎日のように一緒にいて、将来の話を、当たり前のようにしていた人。この先もずっと一緒にいるのだと、信じて疑わなかった人。
自分は友達と飲み会や旅行に頻繁に行くのに、わたしが同じことをするとすぐに機嫌を悪くして、
「こんな時間まで飲み会をしているサークルなんて、ありえない」
と散々怒られて喧嘩になってから、できる限り誘いを断るようにしていたサークルには、気づくと居場所がなくなってしまっていた。
大学が違う彼とはほぼ毎日会っていたから、自然と学内の友達をつくることも後回しにしてしまって、自分のキャンパスを歩いても、知り合いに会うこともほとんどない。ひとりでいるとやけに広く感じた。
生活の、人生のすべてが彼を中心にまわっていたことに、別れを告げられるまで、わたしは全く気づかなかった。
身につけている服、お金の使い道、交友関係、今日の予定。そのどれもが、彼を基準に選んだものだった。
3年間、わたしの人生には、彼しかいなかった。
そんな彼がいなくなってしまったら、わたしは明日から、何のために生きればいいんだろう?
急にそんな事実を突きつけられて、生きる意味を見失いそうだった。
だから、わたしは彼に縋るしかなかったのだ。
ライブはそれでも割り切って、例年通りおそろいのTシャツを着て、それなりに楽しんだ。
これを機に、
「やっぱり一緒にいると楽しいから、別れるのはやめよう。」
なんて言ってくれるんじゃないかと、どこかで期待もしていた。
だけどそんなに現実は甘くなくて、ライブが終わった途端、彼はまたそっけなくなった。
3年間、デートでは行ったことのなかったチェーンの居酒屋の2階席で、彼は先輩に勧められたという理由で最近はじめた煙草を無言で吸っていた。
はじめてそれを知ったとき、泣くほどショックで喧嘩になったその姿も、この2ヶ月間で、既に見慣れたものになってしまっていた。
こんな風に、彼がもう優しくないことも、自分が彼の特別な存在でないことも、少しずつ慣れていって、気にならなくなるのだろうか。
だったら早く、そうなればいいのに。
煙の向こうで、彼が着るライブTシャツに描かれたピエロのイラストは、2年前と同じように、困ったような顔でこちらに笑いかけていた。
居酒屋を出て家に着くと、彼は突然優しい口調でこう言った。
「ななみのことが、嫌いになったわけじゃないんだ。むしろ今でも大切な存在だと思ってる。…でも、付き合うのは、ちょっと違うというか。」
久しぶりに名前を呼んでくれたこと、目を合わせてくれたこと。
たったそれだけで胸がいっぱいになってしまうくらい、その時のわたしは、彼の優しさに飢えていた。
「好きな人ができるまででいい。それまでは、一緒にいたい。」
彼に好きな人ができたら、きっと諦めもつく。
だから、それまではせめて一緒にいたい。
愚かなことなのはわかっていた。けれどそれ以外に、この先自分が生きていく方法がみつからなかった。
「でも、このまま一緒にいたら、都合のいい関係になるよ。それでもいいの?」
困った顔で笑う彼は、こちらに選ぶ権利がないことを、わかっていたのだろう。
彼に引かれた手を振りほどくことなんて、わたしには当然できなかった。
わたしはこの時も、まだ彼を信じていた。
どこかで期待を捨てきれなかった。
出会って、少しずつお互いのことを知って、惹かれ合って。
付き合ってからの3年間も、喧嘩はたくさんしたけれど、それでも仲はよかった。大学も違ったけれど、共通の友達がたくさんできたし、旅行もたくさんした。
記念日は3年間、毎月必ず会ってお祝いをしていたし、その度に撮ったプリクラは、30枚以上の束になって、2人の長い年月を物語っていた。
新しい環境になっても浮気をせず、お互いにまっすぐ向き合って、想いをぶつけ合って、誠実に付き合ってきた、はずだった。
だから、たとえ恋心が冷めてしまったとしても、彼の中には思いやりとか敬意とか、そういう類の感情が少しは残っていると、わたしは過信していたのかもしれない。
だけど、この夜わたしの手を引いた彼は、もう既にわたしの知っている彼ではなかった。
その日から、本当の意味での地獄がはじまった。
美しくて愛おしくて、きらきら輝いていた3年間は、みるみるうちに壊れていった。
そこにはもう、優しさや誠実さなんて言葉は微塵もなかった。
そうか。人間はこんなにも、豹変するものなんだなあ。
麻痺した感覚の中で、ぼんやり思った。
「ずっと一緒にいようね。」
「俺は、結婚も考えてるから。絶対幸せにする。」
何度も耳にした言葉たちは、この関係が続けば続くほど、まるで呪いのようにわたしの心を蝕んだ。
すべては悪い夢だったのかもしれない。
ようやくわたしに好きな人ができるまでの4ヶ月間、その夢はずるずると続いた。
『ふたご』を読み終えるまで、しばらくあの頃のことは忘れていた。
本当は、思い出すのを身体が拒否していたのかもしれない。
現に、彼との関係を断ち切ってから約4年間は、ほとんど思い出すこともなかった。
無意識に、ずっと蓋をしていたのだろう。
その下では、心をえぐられるような記憶が蠢いていて、ずっと悲鳴をあげていた。
これを書いている今でも、まだ思い出したくないことが、山ほどあった。どろどろとした鮮やかな記憶が蘇ってこないようにと、すぐに蓋を閉じた瞬間も、何度かあった。
だけど、さっき立ち寄ったコンビニで偶然セカオワの曲が流れてきて、「ああ、懐かしいなあ」としか思わなかった自分に、少しだけ心強さを感じたのもまた、事実だった。
まだ、思い出すと古傷をえぐられるような記憶もある。
その一方で、たしかに薄れていっている記憶も、あるのだ。
わたしはこれからも、あの頃のことをふとした瞬間に思い出して、何かを思ったり、思わなかったりするのだろう。
明日にはもう、今日思い出したことも、忘れているかもしれない。
そんな事実が今日までの、そして明日からのわたしを、ずっと生かしてくれるのだろうなと思った。
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