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求めていたのは、空白だった。


「旅行先で、何もしないでのんびり過ごすってことが、できないんだよねえ。南の島とか行っても、俺、どうしても何かしちゃう。」

出張の帰り道、大崎上島から竹原に向かう船内で、上司がふとこんなことを口にした。

「君はどう?」と話を振られた先輩も、「僕も無理ですね。こういう島で何もすることがないってなったら、スマホいじってますね。」と同意する。

「地元の人との交流とかも、そんなに興味ないからなあ。」

そんな会話を横で聞きながら、最近読んだ古性のちさんのnoteの内容を思い出していた。

そのnoteには、「黄昏れる、ということがうまくできなくなってきている」ということが書かれていて、読んだときに、わたしも確かにそうだなあ、と強く共感したのは記憶に新しい。




何もせず、ただぼーっとする。そんな簡単なことが、わたしは特に社会人になってから、全然できていないなと感じる。

たぶん、物理的に時間が足りなくなったというよりは、精神的な変化が理由だと思っている。

何をしていても、たとえ「今日は何もしないぞ」と決めていたとしても、どうしても何かを見たり聞いたり感じたりした瞬間に、「あ、これはnoteに書けそうだな」とか、「あ、これはインスタに載せよう」とか、何かと頭を働かせている自分がいる。

常に「アウトプットありき」で物事を体験しようという姿勢が身に染みついてしまっているし、偶発的に何かが起きたとしても、そこから何らかの意味を見出して、「これにはこういう学びがあった」と生産性を意識した思考回路に走ってしまう。

別にアウトプットなんて必要ないのに。すべての物事に生産性がなくたっていいはずなのに。




こういう傾向はきっと、仕事の面ではいいことなんだと思う。

それに、「何もせずにぼーっとする」ことができないからといって不幸になる、というわけでもないだろう。

現に、わたしの先輩たちは旅先でそれができなかったとしても、後悔したり自分を責めたり、マイナスな感情を抱くことは、おそらくない。

黄昏れることができなくても、幸せに生きている人たちはたくさんいる。それもまた、事実だ。




だけど、と思う。

わたしは、違う。
意味のないことや何もしない時間が、自分にとっては欠かせないものだ。

そう強く思ったのは、帰りの飛行機でぼんやり窓の外を眺めていたときだった。

大好きな瀬戸内の景色の中でも、何度見ても心をぐっと掴まれる夕暮れの淡い空の色を目で追っていたら、ああ、自分にはやっぱりこういう時間が必要だなあと思った。

スマホも使えない、(飛行機酔いするので)本も読めない、という何もできない空間で、ただ一人、窓の外を眺めている時間。

飛行機が何よりも苦手なわたしに突然訪れた空白は、自分が自分と半ば強制的に向き合えるという意味で、案外大切な時間なのかもしれない、ということを気づかせてくれた。




そして、空白の時間が生まれると、次から次へと記憶や感情、言葉が湧いてくる感覚が全身に甦ってきた。

そこでまた、「あ、これはnoteに…」と思考がすぐそっちに向かってしまうので、まだまだ修行が必要なのだけれど。。

こういう空白を、できるだけ多く日常にも組み込めるようにしていけたらいいなあ、と思う。

だけど、それも目まぐるしい日々がまた始まってしまうと、すっと日常に溶けてなくなってしまう。

だからわたしは、旅が好きなんだなと思う。
旅に出たいと思うとき、わたしはきっと、空白を求めていたんだ。

わたしはわたしのために、これからも旅先で、ちゃんと空白を与えてあげたい。

飛行機の窓から眺めた、瀬戸内の夕暮れ。

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