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「たそがれる」ことの価値

この前、仕事で朝焼けと夕焼けを撮った。
パシャリと1枚切り取ったわけではなく、2時間ほど経過を撮り、つなげる作業をしたので眠い目をこすりながら(夕方はぶるぶる震えながら)、太陽が世界の色を塗り替えていく風景を見守っていた。

目の前に広がるのはとにかく泣いてしまうくらいに美しくて「ああ、世界は綺麗だなあ」なんて、普段は呑み込んでしまうような恥ずかしい台詞が自然とこぼれ落ちてしまうそんな景色だったのだけれど。

途中からわたしは「ぼーっとしている」ことにそわそわしてしまって、iPhoneで時間を確認したり、この時間を使ってnoteでも書いてしまおうかだの、あれこれ頭の中はうるさくて、落ち着かなくなってしまった。

ああ、黄昏ることがこんなにも下手くそになってしまって、難しいものになってしまったんだな、と悲しくなった。

あいた隙間を無意識に埋めようとしてしまうのはいつの頃からだっただろう。
なぜ「何もしない」を悪のように捉えるようになってしまったのか。
その感覚はいつのまにか無意識にわたし自身を蝕んでいて、気づけばそれが当たり前になってしまった。

最後にちゃんと「たそがれた」のはいつだろうか。

2016年からこうしてコロナで外になかなか出れなくなってしまうまで、私は1年の半分を世界のどこかで自由気ままに暮らしていた。
一番肌にあったのは東南アジアや中東の、雑多で、整備されていなくて、ちょっとテキトーで、ゆるい国。
そこに住む人々は驚くほどに穏やかでのんびり暮らしていて、あの空気の一部になれたらいいのにと、いつも酷くうらやましかった。

思えばあの人たちはみんな、黄昏るのが上手だったな。
太陽がのぼったら体中にめいっぱいエネルギーをためて、夕陽が沈むのを土手でぼーっと眺めて、1日の終わりをゆっくり全身に感じて。
あの人たちは、ちゃんと地球と生きていた。
比べてわたしは、どうだろう。

人生の質は、どれだけあの「たそがれ」の時間を持つことができるか。そして、それを愛せるかで変わる気がしている。

わたしはまた、取り戻せるのかな。
こうして気付けるうちはまだきっと、大丈夫なはずだ。

気づかないうちに手からこぼしてしまわないように。
こうして今感じたことは、記しておこう。

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