誰かを照らしたい。だけど、自分も輝きたくて。
そうか、そういうことだったのか。
北野唯我さんの『天才を殺す凡人』という本を読んで、今まで自分の中にずっと存在していた、矛盾の正体がわかってしまった。
正確に言えば、その本の巻末に付されている「ブログに寄せられた感想」によって、それが明らかになった。
目の前を覆っていた霧が晴れて、視界がぱっと明るくなり、すべてが繋がったような気がした。
そうか、そういうことだったのか。
だから、わたしは「誰かのために頑張る」とき、どこかに不安な想いを抱えていることが多かったんだ。
"誰かのために" 頑張りたい。だけど、不安な自分もいる。
昔から、人が好きだった。
身の回りの誰かを応援すること、素敵だなと思った人の魅力を伝えること。
「誰かのために、何かをすること」が、好きだった。
小さい頃から人の相談に乗ることも多くて、自分がその人の考え方が変わるきっかけをつくったり、人としての成長や変化の瞬間に立ち会うのが、何より喜びを感じる瞬間だった。
だけどここ数年間は、「わたしは100%誰かのためだけに尽くすことが、できない人間なのかもしれない」という想いを、頭の片隅でずっと抱えていた。
周りの人からは、
「愛が深くて、とことん人に尽くすタイプだよね」
とか、
「他人への貢献心とか、コミット量がすごいよね」
と言われることも多かった。
けれど、誰かの成長のために頑張っているとき、身近にいる好きな人や憧れの人を応援するとき、どうしても自分の中に、もやもやとした感情がつきまとって離れなかったのだ。
何かが足りなかった。だから、力をつけたいと思った。
そういう想いは、就職活動を通して、少しずつ顕在化していったように感じる。
就職活動をはじめた初期の頃は、「人のことを考える」「人の成長に関わる」という視点で、教育系の業界や、人材コンサルを中心に考えていた。
だけど最終的にわたしが選んだのは、「Web広告代理店」という、自分にとって、まったく想定していなかった道だった。
理由は簡単で、「力をつけたい」と思っていたから。
誰かを助けるにも、応援するにも、魅力を伝えるにも、自分自身に力がないと、それも叶わない。
自分はまだ、何もできない。だから自分に、力をつけたい。
自分を鍛えるために、若いときに過酷な環境に飛び込んで、頑張ってみよう。
そう決意して、当時のわたしが持っていた選択肢の中で、いちばん厳しい環境がありそうだった企業に、入社することを決意した。
自分だって、輝くために誰かの力がほしい。
あの頃は、純粋に「誰かのために頑張るには、自分にもっと力がないといけない……!」と、思っていた。
だけどいま振り返ってみると、そこには「誰かに光を当てる前に、まずは自分が輝きたい」という想いが、少しはあったんじゃないかなあと思う。
それに気づかせてくれたのが、この本だったのだ。
あ、わたしは「共感の神」だ。
これは、北野さんの書籍を読んで最初に思ったことだった。
「共感の神」とは、世の中になかなか理解されない「天才」の気持ちに寄り添い、理解者になって、天才を支える人のこと。
主人公はその「共感の神」として描かれているのだけど、その思考や行動があまりにも自分と似通っていて、「あ、これは自分だ」と、読み始めて数ページの時点で思った。
輝く才能がある人、魅力的な人に出会うと、心が強く惹かれる。
「この人と一緒に働きたい」「この人の魅力を伝えたい」という気持ちが発動して、気づくと、無意識に色々な人に、好きな人のことを話している。
もっと、この人の魅力を伝えたい。
もっと多くの人に、よさを知ってほしい。
自分はそれをするために、その人のことをそばで支えたいし、必要とされたい。
「この本の主人公は、自分なのか?」と思ってしまうくらい、色々な場面で、思い当たる節があった。
けれど、ストーリーを追いながら、どこかでもやもやしている自分がいることに気づいた。
わたしは、ここで定義されている内容を踏まえたら、「共感の神」の要素がいちばん強いと思う。
だけど、「天才」のことを理解して、そばで支えて、その人のよさを広めていく「共感の神」に、わたし自身は「なりたい」と、思っているのだろうか?
そう自問してみると、
誰かを照らし続けるだけの人生は、わたしには無理かもしれない……
という答えが、心の中に、たしかにあった。
もちろん、「誰かを照らすこと」が好きな気持ち自体は変わらないし、自分の才能を考えたうえで、そういう役回りが「向いている」ということも、わかっている。
わかっているけど、気持ちはそこまで追いつかない。
本当はもっと、自分のことも、照らしたい。輝きたい。
「天才」のように、まわりに理解されなくて苦しむこともたくさんあるし、誰かに自分を見つけてほしい、わかってほしい、好きになってほしい、と思っている。
すべての局面で、とは言わないけれど、ある局面では、自分だって「好きだ」「素敵だ」と誰かに思われたいし、理解されたいし、輝くために、誰かの力が欲しい。
そんな切実な想いが、自分の中で声をあげていた。
誰かを照らす前に必要なのは、"自信" と "諦める力"
そんなもやもやを抱えながら本を閉じようとしたわたしは、最後に、他の読者の方がどんなことを考えているのかが気になって、巻末のコメントを順に読んでみることにした。
そこで、衝撃を受けたコメントがあった。
要約すると、
共感の神に共通する素養は、共感性の高さに加えて「諦める力」。
自ら所属する組織で勝つことを諦め、天才に与することができるのは、何かをやり切った経験がある人だけ。
自分の才能にあった場所でやり切ることで、初めて自信がついて「この天才に負けてもいいや」と考えられる。
ということだった。
これを読んだとき、ずっと心の中にあったもやもやが、すうっと溶けて消えていく感覚があった。
わたしは昔から、自分にずっと、期待を抱いて生きている。
だけど、26年間生きていて、一度も「成功体験」と言えるような経験をしたことがないし、何かをやり切ったこともない(いつも中途半端なところで終わってしまう)。
だから諦めることができなくて、色々な「すごい人」「魅力的な人」を見ては、応援したくなる気持ちと、自分も彼らに近づきたい、という気持ちとがせめぎ合って、苦しくなってしまうのかもしれない、と気づいたのだ。
そういう意味では、わたしはまだ「共感の神見習い」くらいだったのかもしれない……という冗談はさておき、このコメントを読んで、心がすっと軽くなった。
自分が輝ける日まで、やり切りたい。
だからわたしは、いま自分が置かれている場所で、諦めがつくまで、やり切りたい。
「この人には、敵わないな」
「この人の魅力を、もっと知ってもらいたいな」
そう純粋に思える自分になれるまでは、「自信」と「諦める力」が身につくまで、自分のために、頑張り続けたい。
***
とはいえ、一体どこまで頑張ったら「やり切る」なのかという問題はあるし、やり切っても自分に期待をしてしまう、もっと先を目指したくなってしまう…ということも、わたしの性格上、あり得るなあとも思っている。
そうなったら「もっと先」を目指し続けて、自分が輝くために頑張り続ければいいし、反対に「照らしたくなる誰か」を見つけたら、全力でそこに力を注げばいい。どちらかに振り切らなくても、いいのかもしれない。
まずは「自分にも、天才の部分がきっとある……!」と信じて、そこを丁寧に磨いて、育てていきたい。
やっぱり自分だけは、最後まで、自分に期待をしていたいなと思うから。
貸してもらった本だけど、自分も手元に置いておこうかなあと思案中。
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