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神様は、いるぞ!





大吉でした。あけましておめでとうございます



これはなかなか縁起がいい挨拶なのではないだろうか。今年はこの人の側にいようとさえ思えてくる。縁起物ならぬ縁起者である。大切にしてね。

大吉を引く人によく言われる「大吉は頭打ちだから現状よりも良いことはないんだぜよ。結局吉や末吉の方が伸び代があっていいんだぜよ。」なんて訳の分からない超キモ妬み全開の意見に耳を傾けることなくここに自慢している。

あー、神様ありがとう


毎年のように末吉か吉だった。実のところ私はそれで満足していたし安心していた。正直おみくじや占いは悪くなければ良いと思っていたし、あまり深く関わらないように立ち回ってきた。悪い運勢が出てしまったらたまったもんじゃない。

占いといえば朝の情報番組ほど残酷なものはないだろう。番組終了直前に星座による運勢が言い捨てられ逃げるように番組が終了する。番組はここで終わるがあとは自分たちのラッキーアイテムでなんとかしろということだ。



「最下位は牡牛座のアナタ↑ごめんなさいね↓ラッキーアイテムは

ちくわ

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です!今日も頑張ってくださいね。また明日!」




つまり「お前今日嫌なことあるから!ちくわ!DE!頑張れ!な!」である。

一日のはじまりの朝、最下位宣告を受けちくわを握りしめてなにを頑張れば良いのか些か疑問である。反旗を翻すことなく冷静に番組を楽しむことができている世間の皆様に毎度関心する。視聴者が私のような捻くれ者ものばかりであれば炎上が起きてラッキーアイテムのちくわなんて磯辺焼きになってしまうだろうに。うま。





ただ、都合がよい話になるがおみくじは占いよりもなんとなく神様に近い気がするから悪口は言わない絶対。多分神社にあるからだ。本当に都合がよいな。改めて今自分が都合がいいヤツだと思いました。





神の多い生涯を送って来ました。(太宰治「人間失格」冒頭部分参照)


昔からいろいろな神様に祈って過ごしてきた。これといった宗教に信仰がなかった私にとって神様は形のない全てのモノに宿る存在だった。幼児期の私は、花は踏まないように、綺麗であることを感謝するようにして育った。なぜならそこには花の神様がいるから。(幼児の発育段階によく見られるアニミズムに近いものだと思う)

昔よくお腹を下したときは母に「お腹の神様に聞いてみてもらっていい?」と頼み込み、母はその場で下半身丸出しの私のお腹に耳をぴったりとつけてウンウンと頷き「もうすぐ治るってよ」と伝えてもらったものだ。毎回お腹の神様には母という神の代弁者を通じて安心させてもらっていた記憶がある。

お腹の神様に関してはマジでよく分からんが

少年野球でヒットを打ちたいときはバットの神様に、徒競走で1番になりたいときは瞬足(スニーカー)の神様に祈り続けていた。


今でこそ、そこまで万物の神様に祈ることはなくなったが神社は別格である。絶対に神様がいるからね。神の領域である。毎回神社に足を踏み入れるときは緊張するし何度もお辞儀をしてからお邪魔する。お邪魔したあとは余計なことは考えずに清き心でご挨拶をして早々においとまするのである。

清き心でご挨拶

これが大人になっても心がけてきたことだ。



だ  と  い  う  の  に



二週間ほど前の1月1日の元旦、私は地元の四人と小さな神社で初詣をした。私たちは四人で横一列で参拝の列に並んでいた。この時点で複数人で来ることによって神様に「テーマパーク感覚で参拝に来てんな」と思われているかもしれないという不安で胸がいっぱいだったのは言うまでもない。



「オレ155円(正確には忘れた)入れるわ。縁起良いっていうし」

並んでるあいだに一人の友人が言った






ばかやろうが



細かすぎるだろ。神様がレジ締め(賽銭箱締め)するときに苦労なさるだろうが。五円でいいのだ。もう一人もそれに続いて言った。


「何お願いしよっかな〜。どうする?」









ばかやろうが



お願いの前に挨拶だ。きっと神様には去年自分に降りかかるであろう災いを最小限にしていただいたのだし、感謝した上で本年もどうぞよろしくお願いいたしますだろうが。


すると115円の友人がふたたび口を開く

「お願いした後に自分の住所言わないと神様が分からなくなるらしいよ」











ばかやろうが



大丈夫だから。神様は全部わかってくれてるんだから。把握してんだから。(後に調べてみると名前と住所をご挨拶の最後に付け足すことはよくあることらしいです。無知ですみません。無知の知。)



そうしてるうちに自分たちの参拝の順番がきたので私たちは横一列で並び、各々のお賽銭を投げ入れる準備をする

私が他の三人よりも少々早く賽銭を投げ入れ、二礼二拍手の一礼目をはじめたときのことである

















アッ


































横からアッと聞こえた気がしたので二礼目に入る前に顔をあげると、隣の友人が投げた155円がキラキラと宙を舞っている。なんて美しいのだろうか。155円は綺麗な弧を描いたまま

賽銭箱を通り越しました










シャラララララララッッ










馬    鹿    野   郎が    ! ! ! ! ! ! ! !





マジで馬鹿野郎がマジで!!!この距離で外す奴おるかね??????

しかしここで参拝を辞める訳にはいかない最後まで二礼二拍手をやり遂げなければならない。



「みんなのゴルフ」とかでホールまであと数mなのにパワーゲージめっちゃ振り切ってとんでもないとこにボール行っちゃったあの感じと似てるな。力み過ぎだろ。

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とかのツッコミが頭の中に浮かんで何も集中できない。早く言いたい。苦しい。いやまずはこの状況を神様に謝ることが最優先だ。私は心の中でまず

「先ほどはウチのものがご無礼を失礼いたしました。誠に申し訳ありませんでした」からご挨拶をしたので結局清き心でご挨拶には程遠く、心が乱れてしまった。そしてふと思った

あーこいつ神様に 名前 と 住所 教えちゃってンだわ






あの時全員笑いを堪えていたらしい。外した賽銭を確認し、その件が落ち着いたあと全員でおみくじをひいて神社を後にしたのだった。











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「愛・・・ですか・・・(頭を上げつつ遠い目をしながら)」


なるほど

ひょっとすると愛と神様の関係は思いのほか親密かも知れない。

前回の記事でも紹介したように「キネマの神様」では主人公の父が映画を、映画の神様を愛し続けた結果その姿に感銘を受けた多くの人々に救われて更生していくという要素がある。「野球の神様」とか「フジロックの神様」だとかもよく耳にしてきたが、例えばそう呼ばれているは誰よりもそれを愛していることだろう。

なんだか万物に神様が宿っていることも不思議ではない気がしてきた。形のないそれぞれの愛がそれぞれの場所にあってそれから、そこに、いつの間にかフワッと神様が宿るのではなかろうか。

お腹の神様はマジでよく分からんが

それに気づくことができれば、あらゆるモノにも人にも優しくなれるだろうしきっと人生はより豊かなものになるのではないか。そういうことですよね?ちょっとよくわかんなくなってきちゃった







フランスの作家ジョルジュ・サンドはこのような言葉を残している

「愛せよ、人生において、良きものはそれだけである」










そして日本にいる私はこのような言葉を残すはずだ


「いや、違うんですちくわの神様・・・これには訳がありまして・・・」

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