春の冬眠から目覚めて
今年はまだ、春の匂いがしていない。
今朝のニュースでは、「今年は暖冬で、例年よりも
桜の開花時期が一週間早く、地域によっては週末に
見頃を迎えるところもあるでしょう」と真面目そうな
キャスターが伝えていた。
確かに、今年は冬というものがなくて、一瞬だけ
秋が顔を出して、冬が来るかな、来るかなと思って
いたら春が来てしまった、というなんだか緩急の
ない、曖昧な速度で季節が移り変わっていった。
けれど、今年に入ってわたしがまだ春の匂いを
捉えられていないのは、そのことだけが
理由じゃない、そんな気がしていた。
春、新しい季節。社会人生活ももう、三年目。
新人の頃は、職場の環境や仕事に慣れるので
精一杯だった。
けれど、失敗を繰り返し、大量の業務をこなすのにも
少しずつ慣れ、最近では、少しの楽しさすら感じる
ようになってきた。
決して気楽な職種ではないし、むしろ同年代の中では
かなり体力的にも精神的にも負荷のかかる仕事だけれ
ど、それなりの期間ハードな生活を続けていると、
段々感覚がその生活に慣れてくる。
初めの頃に感じていたしんどさも、
もうほとんど感じなくなっていた。
人間関係やプライベートも落ち着いてきて、
間違いなく、一年前よりは、「安定」というものを
手にしているはずだった。
あの頃自分が求めていたものを、今はそこそこ
満たせているし、客観的に見ても、文句のない
生活をしていると言ってよかった。
けれど、ふとした瞬間に、「何かが足りない」と
思うことがあった。
何かとても大事なものを、長い間忘れてしまっている
ような気がした。
でも、それが何なのか、思い出せずにいた。
「俺は最近、ようやく撮りたいものが分かってきたよ」
古本屋さんで購入したばかりの、なかなか手に
入らないという「伝説の写真家」という人の写真集を
パラパラとめくりながら、満足そうな表情で彼が
話しかけてくる。
わたしたちは、最近できたばかりの新しいカフェの
日当たりの良い席に、向かい合って座っていた。
写真集に夢中になっている彼の代わりに、
テーブルに注文を取りにきた店員にアイスコーヒーとカフェラテを一つずつ、と伝える。
さっきの言葉はわたしに向かって投げかけられて
いたはずだけど、視線はずっと手元の写真に
集中している。
手持ち無沙汰になって、窓の外を意味もなく眺める。
桜の木の細い枝に、雀が数羽止まろうとしているのが
見えた。
最近大手の出版社を退職し、フリーの写真家として
独立した彼は、猫のように毎日のびのびと、
自由な暮らしをしている。
昔から、「俺は組織というものが嫌いなんだ」と
言って、いつか誰にも縛られない生活をするぞと
意気込んでいたのだけど、まさか本当に、しかも
こんなに早く実現してしまうなんて。
正直、彼の実行力には驚かされた。
出会った頃の彼は、どちらかというと保守的で、
臆病で、志は高いものの、なかなか行動に
移せない人だった。
だから、会社を辞めるのもわたしの方が早いと
思っていたし、好きなことを仕事にしたいという
口癖も、きっと実現しないんだろうなあと思って
いた。
けれど結果は逆だった。
わたしは、自分の行動力を過信していたのかも
しれない。
それと同時に、彼という人を甘くみていたのだろう。
どちらにしても、情けない気持ちだけが、
澱のように心に残った。
最近、彼には様々な用途で写真の依頼がきている
らしい。
中には自分が撮りたい写真ではないことも多い
みたいだけど、依頼が来るだけいい。
というか、それだけで、充分すごい。
彼は、自分の好きなことに没頭している時はとても
純粋に楽しそうな目をしていて、少年のように、
キラキラした表情でその対象と向き合っている。
会話の中でその片鱗が現れると、思わず圧倒されて、
こちらが何も言えなくなってしまうくらいだった。
写真のことを話す時は、いつも透き通った瞳で、
そうしないとまるでそれが壊れてなくなってしまうと
思っているみたいに、大切そうに、言葉を一つ一つ、
丁寧に選んで話す。
その目にはいつも自分だけが隠し場所を知っている
宝物が写っていて、わたしは、その宝物が彼にとって
どれほど大切なのかということは分かっても、
色や形、手触りや匂いが分からなくて、
落ち着かなくなる。
彼が好きなものの話をする時わたしはいつも、
今まで自分が見たこともない美しい景色を瞼の裏に
ありありと描けるのに、いざそれに手を伸ばすと、
ものすごく大きな距離があって届かない、
そんな感覚に襲われた。
だから、彼といると、わたしはいつも、
自分の得意なことや好きなことが分からなくなって、不安になった。
自分が大切にしていたはずのものが、全てとても
ちっぽけに思えてきて、次第に色や温度を失い、
塵になって目の前で次々と消えていった。
それなのに、彼は、時々不安を口にした。
「俺には才能がないから。」
そういう言葉を耳にする時、わたしは、怒りでも
悲しみでもない、何だかよく分からないけれど
ぐちゃぐちゃした感情が渦巻いた。
心が真っ黒になって、どろどろの液体になって、
酷く乾いて、ざらざらの砂になって、そのまま
掌からこぼれ落ちていくような。
それは、一種の羨ましさなのかもしれないし、
彼の目指す場所と今自分がいる場所の距離を
自覚することによる恐怖なのかもしれなかった。
けれど、わたしにもプライドというものがまだ
僅かに残っていたから、そういう言葉を受け取る
度に、大丈夫だよ、そんなことないよ、と
ありきたりな励ましの言葉を送った。
その一連のやり取り全てが、いつもわたしを
惨めな気分にさせた。
アイスコーヒーのストローに口をつけながら、
顔は完全に写真集に釘付けになっている彼を
眺めるのも飽きてきた頃、ふと、過去に自分が書いた
文章を読んでみよう、という考えが浮かんだ。
過去と言ってもわたしが本格的に文章を書き始めたの
は一年前だし、ただ趣味で書いているだけだから
たいした成長は見られないだろうけど、ここ最近
わたしは彼とは逆で、自分が何を書きたいのか
分からなくなっていたから、ちょうどいいと思った。
ほんの気晴らしだった。
せっかくだから、一番最初に書いたものを読んで
みよう。
スマホを開き、羅列したそんなに多くはない
タイトルを眺める。
下に向かってスクロールし、すぐに一年前の文章を
見つける。
最初の一文を読んだ途端、ああ、とため息が漏れた。
そこにいた自分は、今にも崩れ落ちそうなくらい、
切実だった。
一人の人に強く焦がれ、求め、前に進んでも後ろに
下がっても暗闇なのに、それでも全体力を使って、
光を探そうとしていた。
笑ってしまうくらい全力で、あてもないのに、
脇目も振らず、一直線にただただ突き進んでいた。
その頃、自分が見ていた景色の色や形、聴いていた
音楽、風の匂いや空気の柔らかさが、ありありと、
蘇ってきた。
思い出して、胸にじわりと、心地よい切なさが
満ちた。
自分が書いたものなのに、今の自分には考えられない
くらい、切実な文章だった。
当たり前だった。
その頃の自分は、書くことで何かを得ようとか、
そんな見栄や意地なんて、一切なかったから。
その頃のわたしは、これを書かずにはいられなかった
のだ。
それ以外の選択肢が、なかった。
目的なんてなかった。
純粋な想いだけが、そこにはあった。
写真集を読み終えた彼が興奮気味に話しかけてくるの
を片耳で半分くらい聞き流しながら、今日は、家に
帰ったら久しぶりに文章を書いてみよう、と思った。
真っ暗で、しんと静まり返った住宅街のなかを一人
で、風のあたたかさや匂いが昨日とどんな風に変化
したのかを確かめながら歩く夜道が好きだったことを
思い出し、今日は歩いて帰る、と彼に告げる。
少しだけ眉を下げて寂しそうな顔をされたけれど、
すぐにもとに戻って「じゃあ、気をつけてね」と
片手を挙げてにっこりと笑う。
彼の背中を見送り、久しぶりに訪れた一人の帰り道
は、音もなくひっそりとして、風がなんだかさっき
よりもひんやりしているような気がした。
暗闇のなかでは、今朝顔を見せていた桜の花びらは
すっかり隠れてしまったけれど、なんとなく、
頭上にその存在を感じた。
ふわり、とあたたかい風が吹く。
ああ、今日もまた、春の匂いがしなかったな。
そう思ってから、少しだけ、歩を緩める。
注意しなければ気づかないくらい、控えめだった
けれど、懐かしい匂いが、ほのかに鼻先をかすめた。
気のせいと言われたらそうかもしれないと肯いて
しまうほど、それは、とても微かな香りだった。
春は、もう既に来ていたのかもしれない。
ただ、わたしがそれに気づいていなかっただけで。
そう思ったら、拍子抜けしたような、安心したよう
な、不思議な充足感が心を覆った。
帰ったら、しばらく置き物になっていたPCを開こう。
そして、何か書いてみよう。
もう一度だけ大きく、あたたかな夜の空気を吸い込ん
で、心なしか軽くなった身体でゆっくりと歩き始める。
空気が僅かに振動し、今度はさっきよりも
はっきりと、春の匂いがした。
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