「食」への愛と、後ろめたさと。ようやくみつけた、わたしの解釈
「居酒屋とかファミレスって、行ったことある?」
「高いお店じゃないと、誘っても来てくれなさそう。」
学生時代から、何度言われてきたことかわからない言葉。こうした台詞を投げかけられることには、もう慣れてしまった。
知り合ったばかりの相手に、お決まりのようにそう言われるたび、曖昧に笑って「食べるために生きているので…」と、誤魔化してきた。
心の中で、「この人とは、分かり合えないのだろうなあ……」と、思いながら。
でも、少し前まで、わたし自身もわかっていなかった。
「食べることは短期的で、刹那的な楽しみ」だと、頭の片隅ではたぶん思っていたし、「定期的に外食をすることは、贅沢なこと」だと、思い込んでいた。
だから、好きなことなのに、常にどこかで罪悪感がつきまとっていたのだと思う。
もちろん、世間にはそういう見方もあるだろう。
だけど、わたしにとって「食べること」の意味は、それだけじゃなかった。
「食に興味がない人には、何を言ってもきっと理解してもらえないだろうから、言わないでおこう。」
「おいしいものを食べたいときは、同じ温度感で食に向き合っている人を、誘えばいいや。」
そうやって諦めて、割り切って、伝えることをしてこなかった。理解してもらえなかったのは、自分の責任なのかもしれないなあと、今では思う。
だって、わたしにとって「食」は、その程度のものじゃなかったから。そんな簡単に割り切れるものじゃないって、気づいたから。
こんなにもずっと、わたしの人生の一番中心で、心や身体を支えてくれていた愛おしい「食」に、ようやくわたしなりの解釈が、みつかったような気がする。
だから今、言葉にしてみよう。そう思った。
これはわたしが、自分にとっての「食」に対する解釈を見つけるまでの長い長い道のりを綴った、とりとめもない記録である。
自分の「食」へのこだわりは、どうやら普通じゃないらしい
そう気づいたのは、大学2年生の頃だっただろうか。
約100名が所属する、「美食サークル」という食べ歩きサークルの新歓に、足を運んだときのこと。当時の幹事長と話がやけに弾んだことを、今でも覚えている。
それまでは、周りの友人たちに「今、一番○○ってお店に行きたくて…」と話しても、「へえ」「さすが、詳しいね」なんて言われて、会話は以上終了、だった。
だけど、そこにいたのは自分と同じように、おいしいものを食べるためなら時間も労力も惜しまないような人ばかり。
中には「月に一回、大好きなフレンチを食べに行くために、普段は毎日、めかぶと白米を食べて節約している」という強者もいた。
そんな「食べることが好き」な人たちでさえ、わたしが
「パンケーキを食べるために朝5時半に起きて、3時間待つ」
とか、
「カレーを食べるためだけに、往復4時間かけてお店に足を運ぶ」
とか、
そんな話をすると「やっぱりすごいわ〜」「食への熱意が、ほんとすごいよねえ」と、笑われる。わたしにとってはごく普通のことだと思っていたから、拍子抜けしてしまった。
これだけ食べることが好きな人たちが集まっている場所で、そんな風に言われるってことは、自分の食への愛情(というか執念?)は、普通ではないのかな…?と、薄々気づきはじめたのが、この頃だった。
"同じ価値観の人"とだけ、食事をするようになる
社会人になって、行動範囲や人間関係は、それまで以上にぐっと広がった。特に、食べることが好きな人とのつながりが一気に増えて、外食の頻度も、同じようにぐんぐん上がっていった。
自由に使える時間は極端に減ったけれど、自由に使えるお金は増えた。
その限りある時間に、千を超える「行きたいお店リスト」の中からいかに「今、一番行きたいお店」を選ぶか。
そして、いかに金曜日と土曜日の夜に、間違いなく、自分の心を満たすお店で食事をするか。それは、当時のわたしにとって、人生の最重要事項だった。
だから、社会人2年目くらいになると、自然と週末に会う人も固定されていった。基準は、自分と同じくらい「おいしいものを食べること」への熱意があって、そこに時間とお金を、かけられるかどうか。
その基準でひたすら「行きたいお店リスト」に足を運ぶのは楽しかったし、学生の頃には手も出なかったような、憧れのお店の味を知った瞬間は夢のようで、そのときの衝撃は、今でも忘れられない。
だけど、あるとき突然、気づいてしまったのだ。
「あれ?おいしいはずなのに、全然おいしくない……」
全身に、衝撃が走った。
ただ「おいしいものを食べたい」わけじゃなかった
「あれ?おいしいはずなのに、全然おいしくない……」と思った瞬間は、今までに、何度かあった。その中でも特に覚えている場面が、2回ある。
1回目は、「ずっと好きな人と一緒に訪れてみたい」と思っていたものの、その相手はあまり食に興味がなくて、結局別の人に誘われて、もういいや、と諦めて、行ってしまったときのこと。
そのお店の空間、お料理、お店の方との会話、お客さんの表情まで、今でもすべてが脳裏に焼きついている。それくらい、心を打つような体験で、
「ああ、自分はどうしてここに来てしまったんだろう。馬鹿だなあ。」
と、帰り道にひとりで泣いた。
2回目は、「滅多に予約が取れないお店だから」と誘われて行ってみたものの、その場で会話に挙がるのは、最近行ったお店や、これから行きたいお店の話ばかり。
自分がその場にいる意味が分からなくなったのと同時に、目の前のお料理の味も、分からなくなった。
わたしが転職したことも、ついこの間誕生日だったことも、何も触れられずに会が終わって、
「あれ、わたし、何のためにここにいるんだっけ……」
と、空っぽの気持ちで家路についた。
その頃からだと思う。わたしの「食」に対する愛情が、少しずつ、疑問に変わりはじめていったのは。
自分の好きなお店に足を運ぶ頻度は学生の頃より増えているし、一回あたりの単価も、格段に上がっている。それなのに、自分がどんどんすり減っていくような気がする。まったく満たされない。
そのお店の空間が心を満たすものであればあるほど、口にするお料理がおいしければおいしいほど、わたしはどんどん、空っぽになっていくような感覚だった。
はじめて「食」が、自分の人生の中心じゃなくなった
それが、今年の年明けのこと。
3月頃から、外食の頻度は一気に減った。それまでは週に3〜4回、夜に外食をしていたのだけど、ここ最近は、1ヶ月に1,2回くらいにまで減った(正確には、意図的に減らしていた)。
そもそも、緊急事態宣言下で外食ができなくなってしまったこと。仕事やプライベートが忙しくなって、人と会う時間がほとんど取れなくなったこと。勉強のために大きな出費をして、節約しないといけなかったこと……
理由は色々あるのだけれど、一番は、「後ろめたさ」だったのだと思う。何に対する「後ろめたさ」なのかというと、たぶんそれは「自分自身」に対してだ。
「5年後、10年後の自分が、幸せになる時間やお金の使い方をする」
と新年に決めて、実行してきた。その中で、「おいしいものを食べること」は、自分にとっては「短期的で、刹那的な楽しみ」という位置づけになっていたのだ。
だから外食の頻度を減らして、その分勉強のためにお金を使ったし、「おいしいものを食べる」ことを目的に人と会うことは、一切しなくなった。
週末のルーティーンだった「ひとりカフェ」も一切やめて、ジムの後はお腹が空いていても、家に帰るまで我慢するようになった。
それを続けていたら、1日に3〜4回は開いていたInstagramは開くことすらなくなっていて、食べログの新機能も、この間アプリを開いて初めて知った。
「おいしいものが好き」という共通点で仲良くなった人たちとはほとんど連絡も取らなくなってしまったし、新しいお店や食のトレンドへの関心も、少しずつ、薄れていった。
26年間わたしという人間の中心にいた「食」の一文字が、自分から離れていった。そして気づいたら、「案外大事じゃなかったのかも」とすら思うようになっていた。
26年間、自分の人生の中で何よりも重要だった、「食べること」。
どこへ行っても「グルメな人」「おいしいお店に詳しい人」と言われ続けて、それが自分のアイデンティティだった。
そんな自分の中から、「食」がなくなる。
そんな日が、くるなんて。
そのこと自体はほんの少し寂しかったけれど、今は仕事や勉強に集中したいし、仕方ないのかもしれないなあ。そんな風に、思っていた。
半年ぶりの、ひとりカフェで思い出した
そして先日、約半年ぶりに、封印していた「ひとりカフェ」をしようと思い立った。
何気なくスケジュール帳を開いて、ここ数ヶ月の予定を眺めていたら、あまりにも味気ないことに気づいたからだ。
せっかく仕事のない休みの日があっても、朝からジムでトレーニングをして、勉強のための本を買って、家に帰って本を読んで、noteを書いて1日が終わる……。
もちろん、それはそれで、わたしの好きな休日の過ごし方ではある。
だけど、その日はせっかく久しぶりに有給を取ったのに、ジムと歯医者の予約しかしていなかった。そんな事実に気づいて、なんだか自分が哀れに思えたのだ。
「最近、仕事ばかりで全然休んでいなかったし、さすがに今日くらい、おいしいものでも食べさせてあげようかな……」
と、自分を許してみることにする。
そうして足を運んだ、ずっと訪れてみたかったカフェ。そこでわたしは、自分の視野がいかに狭かったかを、痛感することになった。
Google マップを片手に、足を踏み入れたことのない住宅街を歩く。小さな看板を見つけ、階段を3段、降りる。木の扉を開ける。
焼き菓子の、甘い匂い。穏やかな笑顔の店員さん。明るいクリーム色の壁。あたたかみのある木のテーブル。ゆったりと流れる音楽。コーヒーを淹れるコポコポという心地よい音……。
「ああ、これだ。この感覚。」
「ずっと訪れてみたかった、初めてのお店」の扉を開けるときの、足を踏み入れるときの、そわそわするような、だけどわくわくの方が大きい、他の何にも変えられない、この感覚。
最後のひとつだった焼き立てのキッシュは、とうもろこしが甘くてみずみずしくて、中の生地がふわふわで、生地はサクサクと音を立てるくらい、軽やかで香ばしかった。
付け合わせのお野菜は、どれも脇役だなんて思えないほど凛とした佇まいで、一口、ひと口フォークを口に運ぶたび、いちいち感動した。
あまりにも懐かしい感覚に、涙が出そうになる。
この感覚をもう少し味わいたくて、ホットコーヒーと、キャロットケーキを追加で注文した。キャロットケーキは、ずっしりと重みがあった。
身体中に、言葉にならないあたたかい感情が、満ちていった。
やっぱり「食」を、手放したくなかった
ああ、やっぱり、こうやって心が落ち着く空間で、おいしいご飯を食べる時間は、わたしにとって大切なひとときなんだなあ。
みるみる身体に元気が行き渡って、心もほどけてゆく感覚を久しぶりに味わって、気づいた。
わたしはきっと、「誰かの想い」がこもった食事や空間に、心を、身体を、預けたいんだろうなあ。
「どこの土地の、誰から食材を買うか」というところから、こだわり抜かれたお料理は、心も身体も元気になれる。お料理の一皿、一皿に合わせて選んでもらうワインは、いつだって新しい世界を見せてくれる。
テーブルの色や触り心地、どこに座っても落ち着ける席や柱の配置、やわらかな照明、季節によって変わる、花瓶に生けられたお花。
挙げたらキリがないけれど、その空間にある、すべてのものに感動したいし、そのお店の人の「好き」を、感じたい。全部、味わい尽くしたい。
そして何より、それによって大きく揺さぶられる心の衝動を、きらめきを、大切な人と、分かち合いたい。
だからわたしは、はじめて訪れる空間でおいしいものを食べることが、好きなのだろうな。それが何よりも、しあわせな瞬間なのだ。
そしてきっと、だからわたしは「食べる」にまつわるすべてのものを、妥協したくないのだろう。
もちろん限度はある。だけど、できる限り好きな人とは、心も身体も預けられる、安心できる空間で、おいしいご飯を食べて「おいしいね」って言い合いたい。
ひとりもいいけれど、大切な誰かと一緒に、噛みしめたい。
そんな当たり前のようなことに、手放してみて、はじめて自分の体感を持って、気づいたのだった。
これが、わたしの「食」への解釈
同世代の友人たちよりも、食事に対する想いが、こだわりが、ほんの少しだけ強いこと。
おいしいものをたくさん食べてきているから、感動する機会が、少なくなってしまったこと。
それらは全て、自分の中で罪悪感となって、いつも頭の隅にあった。
だけど、今こうしておいしいものの味がわかったり、自分が本当に好きなお店を見つけられるようになったりしたのは、幼い頃から「食べ物だけは、いいものを」と、できる限り本物を教えようとしてくれた両親のおかげだと思い至った。
そうやって、無意識のうちに自分の中にあった想いや価値観は、当たり前のものではないのだ。大切に、育ててきたものなのだ。
そんな大切なものを、罪悪感なんかで、手放しちゃいけない。「食へのこだわりや愛情」は、大切にすべき贈り物であり、わたしの強みなのだ、きっと。
だから、人よりも食への愛情が強いわたしは、「食べる」ことは、ただ栄養を摂取するためだけに存在する行為じゃないこととか、お店の人が人生をかけて、こんなに想いを詰め込んでいるから居心地がいい空間になっているということを、言葉を尽くして伝えていきたい。
食材の鮮度や温度、調理の際に具材を入れる順番、焼き加減、茹でる時間、すべてにこだわっているから、こんなに美しく、心もお腹も満たしてくれる一皿ができること。
その一皿に合わせて選んでもらったワインは、それを作った人の想いや、その土地の暮らし、生活している人の話を聞くから、もっともっと、広い世界を知りたくなること。旅に出たくなること。
そんなたくさんのことを、もっと伝えていきたい。
意味のあるものかどうか、生産性が高いかどうか、長期視点かどうか。
たしかにそれも大事だけれど、おいしいご飯は、わたしの今を、救ってくれる。そして、明日の自分を、つくってくれる。
心がほどける空間を生み出してくれるお店があるから、わたしは今ここに立っているし、明日も生きたい、生きよう、と思える。
それだけで、もう、充分じゃないか。
すぐに自分を納得させるのは、難しいかもしれない。
また罪悪感を抱いたり、引け目を感じたりすることも、あるかもしれない。
だけど、こんなに愛おしく大切なものを、隠したり、我慢したりすること。それだけは、やめよう。そう、強く心につぶやいた。
これから先、また「食」への解釈も、距離感も、付き合い方も、変わるかもしれない。
だけど、何度離れても、きっと最後にはここに戻ってくるんだろうなあと思う。そして、なんだかんだ言って、ずっと好きなんだろうなあと、思っている。
「食べること」は、わたしにとっては切っても切り離せない存在で、愛おしい瞬間で、「人生そのもの」だから。
最後に
このnoteに載せている写真は、すべてわたしの人生のなかで、特別な思い入れのある空間を、写したものです。
気になる1枚があった方は、ぜひ、こちらから探してみてください。
そして、もしよかったら。あなたにとって「食」とはなにか、こっそり教えてもらえたら、うれしいです。
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