"誰かと一緒に生きる" に一歩近づいた私と、これから。


前よりも少し、自分が他人に対して優しくなったかもしれないと思うできごとがあった。

数ヶ月前に別れた元恋人と久しぶりに会って、近況報告を聞いていたときのこと。

彼は、仕事が想像以上に激務で、睡眠や食事もまともに取れない生活をしていること、業界や組織に対する不満や苛立ち、などを語ってくれた。




しばらく彼の話を聞いていて、あれ?と思うことがあった。

以前のわたしなら、こういう類の話を聞くと

「自分で選んだ道なのに、愚痴ばっかり言っていないで改善策を考えたらいいのに…」

とか、

「こんな話を聞いている時間がもったいないから、もっと前向きな話ができる人と一緒にいたいなあ」

なんて思って、もやもやした気持ちを抱えながら無理に笑顔で話を聞いていることが多かった。




けれどこのときは、彼の話を聞いていても、苦々しい表情を目にしても、全くそんな感情が浮かばなかったのだ。

むしろ、彼の気持ちが自分のものであるかのように理解できて、どんな言葉をかけたら彼にとって少しでも救いになるのかを、冷静に考えながら言葉を選んでいる自分がいた。

彼の苦悩や苛立ちや不満を、丸ごと自分の中に受け入れて、咀嚼して、寄り添おうとしている。そんな感覚が、自分の中にあることに気づいて驚いた。




彼と別れた帰り道、どうしてだろう、と考えてみると、答えは案外すぐに見つかった。

たぶん今のわたしは、あの頃よりもずっと、自分に余裕があるのだ。

充分に睡眠や食事の時間を取れていて、健康も特に大きな問題はなくて、職場の人間関係でストレスを抱えることもなく、仕事にも勉強にも将来にも、前向きな気持ちで日々努力できている。

価値があると感じる仕事を通して得たお金で、好きな場所に行って、好きな人に会って、「また明日も頑張ろう」と思える日々を過ごしている。

そして何より、そんな自分のことを、わりと好きだなと思えている。

今の自分やこの生活を、受け入れることができている。それはつまり「余裕がある」ということなのだと思う。




ただ、それらは元から持っていたものではなくて、身も心もボロボロだった新卒時代から少しずつ、積み上げてきた結果の上に成り立っている。

だからこそわたしは、今の彼の気持ちを理解し、共感することができるのだろうなと思う。

理想とはかけ離れた、自分の姿や生活に対して悩み、苦しんでいる彼が数年前の自分と重なって、なんとか良い方向に向かうように手助けをしたい、という気持ちにつながっているのだ。




そんな自分の変化に気づいて、「誰かと一緒に生きていく」というのは、もしかするとこういうことなのかもしれないなあ、と思った。

自分のことを自分で満たしてはじめて、大切な人のことも満たすことができる。

経済的にも精神的にも自立して、自分を幸せにできるだけの力をつけてはじめて、誰かの幸せを願ったり、与えたりすることができる。

誰かと一緒に人生を生きていくためには、相手のことを考える余裕がないといけない。けれど、自分に何かが欠けている、と感じていたら、相手でそれを埋めようとしてしまう

今までのわたしは、たぶん自分に足りないものを相手に求めていたから、相手に対して不満を感じたり、相手の行動が自分の期待に沿わないと裏切られた感覚を抱いたりしていたのだろうな、と気づいた。

そう考えると、わたしは「誰かと生きていくことのできる自分」に、一歩近づけたのかもしれない。




とはいえ、今のわたしにはまだ、彼の人生を引き受けられるほどの余裕はない。

「わたしが幸せにするから、今すぐそんな仕事やめて、好きなことしていいよ」とは、言えない。

まだまだ自分が手にしたいものはたくさんあるし、そのために、時間もお金も体力も、今は自分のためだけに使いたい、という気持ちが強い。

誰かを幸せにすることを考えられる自分になるまでには、もう少しだけ時間がかかりそうだなと思う。




そうこうしているうちに、もしかすると彼の方が先に「他人を幸せにする余裕」を手に入れて、戻ってくる可能性はある (他の人のところへ行ってしまう可能性も、充分にある)。

もしくは、お互いまったく別の、すでに余裕がある人と出会って、その人と人生を共にする未来もあるのかもしれない。

どちらにしても、わたしは次に「この人を大切にしたい」と思った人を、今度こそ自分で手放すことのないように、もっと力をつけていきたい。

これから先、自分を待ち構えている未来にわくわくしながら、何よりも今を、思い切り抱きしめて生きていきたいなあと思う。


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