魔女は魔法を使わない

「この世で、私たちを無償で助けてくれる存在は、時間しかいないのよ」

私の母はそう言い切った。

ストーブの上にかけたやかんがしゅうしゅう、と音を立てている。

「スープだって、パンだって、時間をかければ魔法をかけなくても美味しくなるのよ」

歌うように彼女はそう続けた。

もうそろそろストーブを仕舞う時期だ。

朝露に濡れた庭の垣根の下から、地鳩の喉を鳴らす音が聴こえてくる。春なのだ。

私は戸棚からフォートナム&メイソンの缶を取り出し、ボダムのティーポットへ茶葉を二杯入れた。母は沸騰した湯をそこへ勢いよく注ぎ入れる。

私は冷蔵庫に張り付いているタイマーをセットし、食卓の準備を始めた。

「時間が私たちを助けてくれるというけれど、現代社会ではどちらかというと時間に追われる人の方が多いんじゃないのかな」

私は制服に着替えた後に食卓につくと、母にそう問いかけた。脱いだパジャマを洗濯機に放り込み、回してきたところだ。洗い終わる頃には私は学校に向かうために家を出なくてはならないから、洗濯物を干すのは母の役目だ。その代わり、夕方に帰宅した時に洗濯物を取り込み畳むのは私の仕事だ。

母はタイマーを止め、紅茶をカップに注いでいるところで、私はそのカップに足すための牛乳パックを開封した。

「それはそういう世界の人の問題。あなたはそちら側にはいけないのよ。私の娘だから」

母のこういう言い回しを私は時折煙たく思う。選民意識というか、優越感というか。彼女が魔女であることは事実だから、そうやって区別するのは仕方がないにしても、私は未発達な人間の社会の中で生きているのだ。

「A子は朝起きられないからといって朝ごはんを抜いてるよ。Bはお金を節約するためにって美容院に行く代わりにサロンモデルやってるよ。そういうのはいけないことなの」

淹れたての紅茶は熱い。私は喉を焼かないようにそっと飲みすすめる。

「お友達はお友達の価値観があるのよ。それをあなたのものと比較するものではないわ」

それなら、あなたも私の価値観に口出ししないで、そう言いかけて、私は口をつぐむ。
そっと母の横顔を盗みみる。起きぬけで化粧をしていないにも関わらず彼女の肌は光ってみえる。若さは武器だなんて嘘だ。私は未だに消えない眉間のニキビをそっと触って顔をしかめた。彼女には敵いそうもない。

母は私を一瞥すると、

「あなたは、時間を節約する、という考えをどう思うの」

と問いかけた。私は口の中の野菜を飲み込むと、口を開いた。

「時間は節約するものじゃないと思う。時間は限りあるものだけれども、節約したからといって増えるものではないから。それなら私は時間を全て贅沢に使い切りたい」

壁際に置かれたLPからはライヒの「砂漠の音楽」が流れている。この音楽を早送りで聴いたからといって、得るものは何もないな、という思いが頭をよぎった。何かを得るためだけに、生き物は生きているのではないのだ。

「その意見に同感だわ。私達は時間の中でしか生きられないんだから逃げたって無駄なのよ。得をしようとか、損をしないように、って生き方は貧相よ。
今日のお弁当は、昨夜から漬け込んでおいたお肉を焼いたサンドイッチよ。早弁してもいいけれど、味わって食べてね」

「嬉しい。お夕飯は私に任せて。今日は雨だから道が混んでるかも。帰りが遅くなるようだったら連絡して」

私は使い終わった食器を手早く洗い上げ、身だしなみを整えると玄関を出た。

母の魔法はしなやかで強靭だ。私は晴れた空を見上げ一人微笑む。その魔法は私に空を飛ぶ翼も、速く翔ける肉体ももたらしはしないけれど、世界を見渡す眼鏡を与えてくれる。

私もいつか、誰かにその眼鏡を渡せるような魔女になれるだろうか。

その時まで続いている未来が、きらきらと輝いて目の前に広がっていた。

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