見出し画像

生きられそうにない


私はもうここには居られない。
どこにも居場所はないのに、常にどこかに帰りたいと思う。ここには居られない。

「ここ」というのは、決してこの人生のことでは無い。
常に、心の休まらない窮屈な環境のこと。

日々、考えてしまうのは、自分の存在価値ばかり。
そもそも生きていてはいけないのだ。
人の優しさや温かさに触れたくもない。
誰にも迷惑をかけず、ただ1人でひっそりと身を置いて暮らしたい。

無駄だと思いながら、未来の幸せを願って生きている。
生かされているのだが、私はそれを望んでいない。なんならそれを頑なに拒んでいる。
誰かの言葉、視線、態度全てが「私は要らない」と伝えてくる。聞きたくも無い声に嫌でも耳を貸して生きている毎日に嫌々しています。

ただ、誰にも会いたくない。1人でいたい。1人になりたい。生死に囚われずに、ただ自由に生きたい。
これを我儘と言うのであれば、私のこれまでの人生はどんなに不自由で、惨めなものだったのでしょうか。

双極性障害では無い、もっと他の愛着障害やパーソナリティ障害の類だ。

そう、医者に言われた時に肩の荷が降りた気がしました。病気では無い、ただし健康では無い。ただそれは、私が弱かったせいでは無い。なるべくしてこうなった、という事実にどれほど救われたか。
それと同時に、この先治療を進めることがどんなに怖いことかを考えました。原因も無く、こうはならなかった。
愛着障害がどんなものかを知っているからこそ、これ以上の治療をしたくない。傷付くのは私だけでは無い。
このまま治療を続けて、最終的に救われるのは私だけしかいない。いや、きっと誰も救われないのかも知れない。


お母さん。そして家族へ。
私がもし、本当に愛着障害だったとして、その事実を受け止めることが出来ますか。愛着障害の原因の大半は、幼い頃に親の愛を感じることが出来なかったこと。
育て方や、人間性に何か言われること、否定される可能性がある治療に耐えられますか。

完全に克服出来ない治療の為にお金を使う必要も、時間を浪費する必要も無い。
いつ良くなるか分からない病気に、私は最初から完治など期待していないし、どこかで愛着障害だろうなとは思っていたから諦めはついている。


誰かを傷つけない為に自分の気持ちに蓋をして生きてきました。誰かに相談するときですら、私は常に言葉を選んで、本音で誰かと向き合うことから逃げてきました。
出来るだけ嘘はつきたくないと思っていたのに、嘘をつくことでしか自分を守れなくなりました。今後、一生をそう生きていくのだと思います。
私の本音は、言葉は、必ず誰かを傷付けて自分の元へ帰って来る。自分のせいで誰かが苦しんだり泣いたりする姿を見るのはもう沢山です。



定期的に綴っている遺書があります。文章にすることで自分を制御しています。誰にも言えなかった心の内を、文章にして1人で消費しています。
思い返せば、小学生の頃からずっとそうして逃げていました。

私の言葉は人より少し鋭い刃物になります。「死にたい」「生きていたくない」特定の誰かを深く傷付ける刃物になります。
自分でも恐ろしいと思うが、私はそれらの言葉を生半可な気持ちで言葉にしていない。具体的な感情はもう言葉になりません。そんな感情に全て食われています。

嘘だらけの、間違いを重ねた人生でした。何度も感じてきた死にたい、でしたが、これほどまでにあと一歩の勇気が出ない自分を恨んだことはない。
飲み込んだ言葉が、いつか報われる日は来るのでしょうか。「生きていて良かった」と笑える日はくるのでしょうか。
そんな都合のいいほど幸せな未来に、幸せに、私は怖がらずに居られるでしょうか。耐えられるでしょうか。

人の気持ちがこれっぽっちも分からない。考えることすら出来ない。1番なりたくなかったはずの、病気を盾にする人間に近付いているような気がします。
私の内から出た本音は、ぶたれるほどのものなのでしょうか。そうだとしたら、自分の気持ちは永遠に心に秘めていた方が、平和で幸せなのではないでしょうか。
喉の奥から引っ張り出した「死にたい」は、手をあげられるほど醜い感情なのでしょうか。
なぜ叩かれた頬より胸の方が痛むのでしょうか。


誰かに「死にたい」と言われる度に感じるのは無力感でした。何もしてやれない自分の情けなさに申し訳なくなりました。それと同時に、自分の醜さが嫌になります。
誰かが死んだ後に悲しむ自分を見たくない一心です。自分の心を守ることしか考えていない、そんな不純な気持ちで誰かに「生きて」を向けるのです。
それがどんなに残酷なことかを知っているのに。

嘘でも「生きて」と言って欲しかった人がいます。と書いた途端に様々な過去を思い出しました。
「大丈夫」と言って欲しかった、ずっと。他でもない家族に。
私の選択で、初めから肯定されていたものはいくつあったのでしょう。私の言葉を疑うことなく信じて貰えたことは何度あったのでしょう。
「信じてみようと思った」は信じていない。言い聞かせないと信じられないほどになるまで、私は私を嘘で固めてきたのだな、と思います。
二度と、他人の言葉に耳を貸さないと決めたのはもう何年も前です。私はただ傍観者でいたい。誰の考えも間違っている、正解など存在しない。


何度も捨てようとした命です。この先どうなろうと構いません。そのはずなのに諦めがつかない自分に苛立っています。この先どれだけ傷つこうと、泣こうと、興味が無い。
今までそうやって生きてきました。今更幸せなど追いかけられない。
沢山の人に嘘をついて傷付けてきました。まともに生きることすら出来ない。幸せになってはいけない、と思うには十分すぎる時間を過ごしました。

仕事を辞めようと思います。帰りたい。私が誰かと笑い合えてた場所に帰りたい。死にたい時は思い切り泣きたい。過呼吸を堪える夜も苦しい。気の済むまで音楽に明け暮れたい。
今はまだ無理に無理を重ねてみたいのです。
私は諦めるきっかけが欲しい。
「こんなもんか」と笑って死ぬのが夢です。と言うと、きっと自由が無くなる気がするので、私が今死ぬ気がないことだけ記しておきます。


今抱えてることも、3年後には「なんであんなことで」と思える。なんて誰かの話も全て嘘でした。日に日に大きくなる希死念慮に、またかよ、と笑うことしか出来なくなりました。


出会えてよかった人がいる反面、その人たちと出会いたくなかったと心から思います。知らなくて済むならその方が良かった。
大嫌いになれたら楽だった家族ですら、恨むことができなかった。家族が、死を仄めかす発言がどこまで残酷なものかは分かっています。
ただ、隠れて泣いていた幼い私のために、今の私がしてやれることは、私の存在を武器に傷つけることしかなかった。


誰かのせいにしなかったのは、誰にも責任を感じて欲しくなかったからです。傷付けたくなかった。
どんなにボロボロになってでも、誰かのためにと考えられた私を自分で誇りに思う。今こうやって生きているのですら、死んだ後、残された人達がどうなるかが心配で怖いからです。
こんな大人になるはずじゃ無かった。

死にたくても死ねない。逃げ場所も甘える場所も私には作れなかった。人の気持ちを考えられない自分じゃ、今、この場所はとてもじゃないけど耐えられない。
幸せそうな笑い声が聞こえるたびに、居場所がないと孤立する。何度、私が唯一甘えることが出来た人に会いに行こうと思ったか。連絡して話を聞いて欲しいと願ったか。


愛着障害でもなんでも、どうでもよかった。普通に、生きていたかった。こんな風になりたくなんてなかった。
誰に言ってもどうしようも無い感情と1人で戦っているから、1人で休める場所が欲しかった。
誰にも気持ちをぶつけられないから、自分にぶつけるしかなかった。

普通に眠って起きれる人が羨ましい。「このまま目が覚めなければ」と泣きながら眠る夜はもう苦しい。
死ねない理由が自分にとって愛おしい存在だったらどれだけ幸せだろうか。


言うだけ無駄なので、私は私の人生を無駄にしないために生きます。
自分を大事に思えないからこそ、出来ることをします。

ただ、もうこの世界に、私が帰りたい場所も、居たい場所も、もう存在しないようです。
会いたい人も、そばにいたい人も、もう何処にもいませんでした。帰りたい場所も、跡形もなく崩れ去ってしまいました。まさに絶望です。

でももう大丈夫です。1人でも生きていけると思います。何度も捨てようとした人生を歩いているだけです。走っても追いつかないのです。自分のペースでゆっくりと、歩いてもいいことを知りました。だからもう何も怖くない。


それでは。

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,694件

#今こんな気分

76,120件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?