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『毎日更新を続けること』と『熱量のある文章』との狭間で
毎日更新を始めて1ヶ月以上が経った。
自分にとって新しい『note』を始めると同時に毎日更新を始める。
2つの新しいことを同時に始めて、しかも続けるという、ある意味無謀な挑戦。
今のところ続けることはできているものの、時々心の中でチクチクするような、後を引くような靄が残る。
クオリティの差を痛感することによる罪悪感だ。
義務ではないはずが、義務感に苛まれる毎日更新。
毎日更新をするのにもいろいろな理由があると思う。
「伝えたい想いがあるから」という人。
「どこまでできるか試してみたい」という人。
「自分に自信をつけたいから」という人。
どんな理由であってもいいはず。
全部当てはまる人も少なくないと思う。
毎日更新は決して楽ではない。
必ず辛いと感じる瞬間が来る。しかも一回きりで終わるものではない。
続ける限り定期的にやってくる、終わりのないもの。
最初はスタートダッシュで「こういうことを書きたかった」ということを書き続けられる。
でもある時から、「今日はなにを書こうかな」「なにか書けることあるかな」と、出し尽くしたような感覚になる。
外を歩いていたり、リラックスしている時にアイディアが浮かんでくることはある。それをメモ帳に残せば記事の候補は貯まっていく。
が、それっきりになることも多い。
そこから具体的な内容が浮かんでこなくてお蔵入りになることもある。
これは毎日更新あるあるではないだろうか。
次の日に書きたい内容がその日の夜に浮かばなければ潔く寝る。
明日起きてから考えようかと、睡眠に希望を託す。
しかし、それでも浮かばない時がある。手が進まない時がある。
だいたいこの時間までに投稿をしたいと決めている時間に間に合わなければ、焦りも生まれる。
「あぁ、今日も間に合わなかった。こんな私を"お前は仕事ができないやつだ"とバリバリ働く人は攻撃するだろうか。」
そんな、ありもしない批判まで脳裏をよぎる。自分に自分で鞭を打つ。
やらなければと思うほど書けなくなっていく。
この、思うように書けない時の感覚が辛いのだ。
「プロのライターになったら辛くても書かなくちゃいけないし、納期もあるし、そんなこと言ってられないぞ。」
正しい。全くもって正しい。
が、それでもあえて言わせてほしい。
正論が何であろうと、辛い時は辛い。
人間、そういうものではないだろうか。
「楽しまないと」という人がいる。
そんなことはわかっている。あくびが出るほど正しい正論だから。
そんなことを言っても楽しい時ばかりではない。喜怒哀楽の比重が楽しいに偏りすぎても、それはある種の異常だ。
楽しみたくても楽しめない時だってある。それがスランプだというのならそうなんだろう。
ブログでも『毎日更新が辛いと思っている人がスランプを抜ける方法』といった記事を書いている人がいる。
しかし、だいたい決まって「とにかく書くこと」という拍子抜けな答えが書かれている。
「それができれば苦労しない」
「できないから困ってるんだろ!」
正しすぎる正論はかえって人の心には響かない。
その正論が正しければ正しいほど、叶えたくても叶えられないものであるほど、感情が強く反発するからだ。
もう一度言う。辛い時は辛い。
「今日はなにを書こうか」「なにか伝えたいことはあるか」と思っても、頭が働かない時もある。手が進まないこともある。
続けたい気持ちはあっても、その「とにかく書くこと」自体が辛いと感じるのだ。
更新の記録を伸ばし続けるために、とにかく更新しようと思うのはいい。
ただ、更新することが目的になってしまって、肝心の内容がついていっていないのではないか。
読む価値のある内容を届けられていないのではないか。
「ただ更新記録を途絶えさせないためだけの更新ではないのか。」
「この記事は手を抜いたのではないか。」
苦し紛れになんとか更新をするたびに、そんな気持ちが後を引く。罪悪感を引きずってしまう。
実際、どうにか更新した苦し紛れの記事ほどあまり関心を示されないものだ。
その現実が、罪悪感に拍車をかける。
当然ながら、価値のある内容の記事を書いたほうが喜ばれる。
『価値がある』とはそういうことだ。
ただ、いつも書けるかというとそうではない。
毎日投稿をしている以上、限界はあるし、インプットをしていこうにも、明日はすぐそこで待っている。明日にはまた更新をしなければならない。
かといって、どうでもいい投稿をするのは躊躇われる。
最初は、「古き良き時代にあったような、なんでもないブログ記事みたいなものでもいいじゃない」と思っていた。
けど、今はそれをどこかで躊躇っている自分がいる。
毎日更新の維持とクオリティの維持の狭間で、私は今日も悩んでいる。
毎日更新を続けるのは、何者かになりたかったから?
私が毎日更新を続けようと思った理由は、自信をつけたかったからだ。
過去に何度か立ち上げたブログも途中で更新が辛くなってやめてしまっていた。
『ゲーム』と『音楽』は、今までそれほど苦しむことなく続けられている数少ないうちのいくつかだ。休止を挟むことはあっても、何かしらのつながりは保ち続けている。
ただ、それ以外のことは正直あまり長くは続いていない。
「どうしてお前はいつも続けられないんだ」
「どうしてすぐやめるんだ!根性がなさすぎる!」
ひとつのことを続けられないことをずっと責められてきた。
一方で、自分が続けられたことに限って認められなかった。
「そんな飽きっぽい自分でも続けられることがある。」
そう言えるようになりたかったんだろう。
「こんな自分でもここまで続けられた!」という実績を作りたい気持ちがあるんだと思う。
なるほど、何者でもない状態から、何者かになりたいということか。
そして、それは同時に、毎日更新を止めたら最後、その記録と共にまた何者でもなくなってしまうことを意味する。
「毎日更新を継続している人」から、何者でもない人間へ。
その他大勢のひとりに戻る。
伝えたいことがあるからではないの?
もちろん、伝えたいことは山ほどある。
ただ、今は一旦出し切ったような感覚が残っている。
まだ表に出ずに眠っているだけかもしれない。
なにかのきっかけで目を覚まして、私に「今伝えてくれ」と熱を帯びて呼びかけてくる時がいつか訪れるんだろう。ただ、それが今ではないというだけのこと。
一方で、『毎日更新をしているのは、伝えたい想いがあるからです』と言い切れないでいる自分もいる。ここで無理に取り繕おうものなら、綺麗ごとを言う自分に嫌気が差していたことだろう。
結局、承認欲求に振り回されているのではないか?
今はそうかもしれない。
ないと言えば嘘になるし、それは否定しない。
だからといって、自分をよく見せるためだけの過度なアピールをしようとまでは絶対に思わない。
普段は陰に潜んでいて、こうしたタイミングでひょっこり顔を出す程度のものだ。
どれだけ否定をしようと、こうしたメディアを持って発信している以上、誰しもそういった承認欲求を持っているものだと思う。
誰だって人から認められたいもの。
そういう自分もいるんだと受け入れた上で、その自分を暴走させずにどううまく付き合っていくか。
「否定するのではなく、受け入れた上で、どううまく付き合っていくか。」
これはもはや、人生そのものにおける課題なのかもしれない。
それでも私は、今日も更新を続ける。
自分がどこまでできるか試してみたい。
自分の中に眠っている言葉を、感じたことを、見えるところに残したい。
続けた先で、何者かになれるような気がする。
自分が残した言葉が、誰かの心に残るなら。誰かが救われるなら。誰かがなにかを感じてくれるなら。
決してひとつだけではないこの気持ちが、今日も私を動かしている。
真っ白な動機ではないかもしれない。
それでも、まだ何者でもない私の言葉でも、読んでくれる人がいる。
まだ顔も合わせたこともない、本当の名前も知らない誰かが、今日も読んでなにかを感じてくれている。それは本当にありがたいこと。
特に、noteはそれがカタチとして表れやすい。
スキをつけてくれると「あぁ、読んでくれたんだなぁ」と思えるし、
コメントを書いてもらえたりフォローしてもらえた時は本当に嬉しい。
私の経験からくる言葉が今日も誰かに届いている。
それだけでも、ここまで生きながらえてきた意味はあったんだろうと感じられる。
ここまでいろいろ躓いてばかりの人生だったけど、だからこそ、普通の人とは違う視点から伝えられることもある。
そう、書いていて気が付いたけど、これも動機のひとつだ。
どこまでできるかはわからない。
何者かになれる日が来るかもわからない。
むしろ、何者でもない私に戻る日がまた来るかもしれない。
それでも、私は今日も言葉を紡ぐ。
毎日続けることの難しさと、熱量のある言葉をいつも書けないことのジレンマを感じながら。
自分のために。そして、どこかにいるあなたのために。
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