文章を書くのが好きでも、文章に向いているかわからない私は、一体何者なのか
好きと向いているは別物。
果たして、私には物書きをしていくだけの才があるのだろうか。
ただ書き連ねただけの言葉を虚空に放り投げているだけなのではないか。
最近、ろくに説得力のあるタイトルもつけられていない気がする。
誰かの記事を読むとき、確かにタイトルである程度の取捨選択はする。タイトル(記事名)は、「ちょっと入ってみようかな」とふらっと立ち寄ってみたくなるかが決まる、記事の玄関となる重要な部分だ。
では、私が実際に記事を送り出す場合はどうか。
目に留まるタイトルを、手を伸ばしたくなるようなタイトルをつけられているだろうか。
その記事で伝えたいテーマを自分なりに考えて書いているはずが、調子が振るわないと感じる時のほうが多い。むしろ、いつも「これで本当にいいのか」という気持ちしかない。
空振りが続く。
「これか?」と思っても、世間からは「これではない」と無言の答えが返ってくる。
むしろ、特に深く考えていない状態で書いた記事のほうが反応が良いこともままある。
はて。私は文章に向いているのだろうか。
書くのは好きでも、求められているかどうかはまた別の話になってくるし、向いていなかったとなればお話にならない。
書くこと自体はできる。調子が良い時はスラスラと筆が進む。
ただ、どうも、ガツンと腸(はらわた)に響き渡るような言葉を紡げているような気がしない。ヒット3割どころの話ではない。
「なにかが足りない。私に足りないものはなんだ . . . 」
自分なりに"受け取る側"を意識して書いてみたとしても、それが本当にできているかは読み手に判断を委ねるしかない。
noteにはそれこそ、プロアマチュア問わず、私よりも遙かに"読ませる"文章を書いている人たちがごまんといる。それは感性の違いか、様々な文章に触れてきた時間の差か、それとも『書く』と『読む』の経験値か。
いずれにしても、今の私からは遠く及ばないような文章をその人たちは当たり前のように書いている。なんの苦もなく書いている人もいるかもしれない。そして、正当な評価として称賛と賞賛を受けている。
様々な文章や芸術に触れたり、人生のなかで"経験"を重ねたりすることで視野は広がるか、もしくは深まっていく。とはいっても、そこまで濃密な経験を絶えずしてきたというのだろうか。違う世界に生きているのではないかとしか思えないような瞬間もある。
そんな私に、「こういう者です」と名乗る資格などあるというのか。
エッセイスト? 「調子に乗るな未熟者め」と、独り言ちたあとに、"誰かに"詫びを入れて取りやめた。誰に言ったのかはわからない。
文筆家? 「この程度で名乗るとは笑わせる。図に乗るな。」と、それも取りやめた。向いているかすらもわからないのに、私の文章がそもそも求められているかすらもわからないのに、そんなものを名乗る? 随分とおこがましいではないかと、そんな自分がイヤになってやめた。天狗になっている自分を恥じた。
小説家? そもそも書いたこともないし、なれるとも思っていない。なんせ、取りやめる以前にビジョンがないのだ。私の才はそこにはない。少なくとも、今の私には。
では、私はなんなのか。
わからない。
なりたいものの肩書き。元来、肩書きそのものに懐疑的な自分自身がいるからか、肩書き自体に違和感を覚えている。
それを名乗ったところでむなしいだけと思っているのか。
それとも、その肩書きがなくなった後の末路を知っているからか。
何者かになろうとしていながら、何者にもなりたくないというのか。
ますますわからない。
文章に向いているのかもわからない。
文章が求められているのかもわからない。
読み手側を意識して書けているのかもわからない。
あぁ、頭が痛い。
答えが出ないことばかりだ。
なぜこうも、答えがわからない問いばかりが次々と襲うのだろうか。
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