アーティストというものは常に平衡を保つためにダラダラしていないといけいないところがある。 しっかりやるとシステムになってしまい、システムは社会に吸収される。 そうならないのが芸術というものである。 そうなると集団というものを考え維持させることがなかなか難しく思えてくる。 集団である以上それは社会。その社会を維持させるのがアーティストであるとしたらそれはすごく苦手な行為だ。 多大なる何か(未完成の価値)を犠牲にして(犠牲にした感覚になって)ある一定の覚悟の中で集団に関わっていく
現代音楽作曲家のYukikoWatanabeさんと創作を始めたのでその記録を残していく。 Yukiko Watanabe note:https://note.com/yukikocomposer 興味は音と身体。声、行為、物質、空間、時間など。 それから物語の不在、遊び、など。 遊び続ける、考えない方法を模索したい。 というところがお互いの出発点。 ユキコさんとはあがたの森で知り合った。 それぞれにあがたの森を舞台として表現活動を展開していることがあり、そのフィーリングと
ふたつの映画を観た。 偶然同じ会場で2日連続で。 その対比がなかなか面白いものだったので書き記しておく。 1本目がアフガニスタンで自身の身を献身的に捧げた医師、中村哲氏を追ったドキュメンタリー「荒野に希望の火を灯す」。 2本目が川崎市にある子どもの権利条約を元に公的に作られた施設”子ども夢パーク”に迫ったドキュメンタリー「ゆめパのじかん」。 上映会の主催がどちらも女性を中心とした市民団体で、その実行力や会の雰囲気、話す言葉に充実感が溢れていて、なかなか意義ある活動をされてい
創作に際して毎回大量のテキストが発生する。 それを今までは内部で共有したり自分の中に為おいていた。 今後はその覚書を残す。 --- ゼロカーボン演劇(2022年から劇団野らぼうが取り組んでいるイチ演劇の手法)含め、今後の創作において指針を決めていく上でもっとも重要なキーワードは“脱人間中心主義”だろうとますます思っている。 その匂いは日々色濃くなっているし、その線で新しい価値を見つけ出している人が徐々に現れている印象。 ロレンスの雲(劇団野らぼうの2023の公演、ゼロカ
さあ始めよう。小道具の“長さが変幻自在の大根”作りだ。
長い時間かけて行った部屋を作った記録。
今、この日々の中で、作品を作ることの難しさを感じている。 際限なく発生する知らない情報と、人の俗悪のくすぐる写真や文字の応酬で、 明日何が起こるのかわからない、想像よりももっとぞっとすることの方が多い、身構えることに疲れて感じることをやめそうになる。 文字も情報も感情も、選び取るのが難しい。 そんな中で、新たに作品を発表するのは難しい。 世の中を悲観ばかりしていられない。 だから目の前のこと、自分の生活の中で楽しいこと、為になることを見定める。 そしてぐっと潜って、もっと現
流れる風景とそれを受け止める緑の壁。 そこには比較したことのない大きな川の流れ、時間の谷、溢れる溶液と転がる笑い声が 段々畑に垂れ込む霧のように、一段一段夜景に下っていく。 視界は徐々に靄に覆われる。 足元に生えている草と、頭上に瞬く星の明かりが、最後まで自分の視覚の信憑性を不安定にさせる。夜の矢が降り注ぐ日中に。光はかわす身を翻してしなやかに。地面に落ちる弾ける夜の闇のひとでなし。 この、暗い空を飛ぶ旅客機のライトが照らす雲の歪なおうとつを。 広い翼でその凝塊を砕き裂き
ジャストDO IT やるだけだ。 それだけのことに洗濯くんは尻込みしていた。 自分にこの壁を越えられるのか。 不安は壁よりも高く聳える。 どうせダメならその時はその時なりに考えればいい。それよりもできるかどうかを試すことの方がこの場合は重要だ。そう思って自分の身をこの場に投じたのではなかったのか。頭ではそう理解していながらも、自分にとっての理解と理想がてれこになる。追いつかない。記憶に遡る。そこには自分はいない。どこかの風景。見たこともない草っ原。視点は高くなり鳥になったかの
夕方、もしくは朝日が登ったばかりの朝か。 これは、壊れているのか。 誰のものか。 どこからきたのか。 何をするためのものなのか。 道具なのか。 芸術品なのか。 体に装着するのか。 見るものなのか。 乗るものなのか。 これだけで完成品なのか。 これはどこからか欠けた一部なのか。 何か出てくるのか。 何かからでてきたのか。 美味そうではない。 その体裁をみて、洗濯くんは足を止めずにはいられなかった。 これが、ここに、落ちている。 ということに気がついたのは、僕が一番最初なの
アルミ缶は洗わない。 そう言い残して、洗濯くんの友達ロビンちゃんは勢いよくドアを開け放して出て行ってしまった。洗濯くんの家はその当時アパートの2階だったのでその後カンカンカンカンと、ロビンちゃんが階段を降りる音が無常に部屋の中に響いてきた。洗濯くんは咽び泣いた。悲しみは自分の手のひらで押し込めば抑えられる程度のものだったはずなのに、西日と夕暮れの町がそれをさせなかった。眼は水道水をたくさん含んだスポンジのように簡単に涙が溢れた。 食べかけのビーフシチューどうしたらいいんだろ
出来上がったままのパン 洗濯くんはとても食いしん坊だ。 口に入るサイズのものならなんでも食べたいと思っている。 さすがに今では、食べられるもの、食べていいもの、食べてはいけないものの括りがわかってきているので人前で突拍子のない行動は取らなくなった。 だからといって何も問題がないわけではない。時折やっぱりとても、食べてはいけないものを食べたくなってしまう。 そんな苦渋の時間に洗濯くんはなんとも言えない表情を浮かべる。 笑っている顔と泣いている顔を顔の中央に集めて、ぐるりと一回
非効率な観覧車。 洗濯くんは笑っていう。 「この卵焼きには卵は使われていませんね?」 そう言うと店員は後退りし、そろりそろりと厨房に退散していった。 それをみて、この店員がどれくらいこの店で働いているのかが推量される。 あの店員はアルバイトではない。(女性はこの店の創業者である父親の娘だ。)肉体に染み込むまでに培われたこの店での所作が健気にも店側の失態をひとつ補っていた。 しかしそれならば一層どうしてこのような自体に陥ったのか、それを紐解くにはもう少し時間を遡らせる必要があ