集団、AI

アーティストというものは常に平衡を保つためにダラダラしていないといけいないところがある。
しっかりやるとシステムになってしまい、システムは社会に吸収される。
そうならないのが芸術というものである。
そうなると集団というものを考え維持させることがなかなか難しく思えてくる。
集団である以上それは社会。その社会を維持させるのがアーティストであるとしたらそれはすごく苦手な行為だ。
多大なる何か(未完成の価値)を犠牲にして(犠牲にした感覚になって)ある一定の覚悟の中で集団に関わっていくのか、もしくはうまく行けば集団そのものが変容をドライブしながら時に静止すべきタイミングも見失わずにやっていけることがあるのかもしれない。コンテンツ(営み)の種類にもよる。
あらゆる創作が尊いとは思う。ただ自分の肌感覚がどの表面の温度とマッチするかだ。
継続と未来を予測することは難しい。

ただ、過去に見た景色というものがある。
そしてその景色をもう一度見たいとも思う。
そのために過去の風習に習うところもある。

そうなってくるとその形態を変容させ続けるアーティストとそれをひとまとめに指揮する指揮者の存在が羨ましくなる。それは様々な呼び名で役割として既に存在しているだろう。プロデューサー、製作者、マネージャー、演出家、監督、オーナー、批評家、ドラマトゥルク、キュレーターなど。
集団にそのような職能がいて、もしくは、集団そのものがそのような職能の人物を中心として、営まれていたとしたらどうなんだろう。
これも継続し続けるには閑散と無機質なものになっていくのだろうか。
血肉の匂いが必要である。
一方でそんな煩わしく面倒な仕事を率先して、仕事としてではなく(仕事になるかならないかを問わず)牽引してくれる、牽引できると思う、牽引したいと思うような稀有な人物はそうはいない。
そんな人がいるのならついて行ってみたいと思う。
大抵の場合はプレイヤーが創造を立ち上げたいと思い立って点の中心になってるのではないだろうか。
そうなると目指すべきは、プレイヤーの育成ではなく、陰の支配者的立ち回りの人物の実現可能性の向上、意識改革である。

そんな立ち回りを一手にAIに任せて、スケジューリング、会計、宣伝戦略、メディア対応、広報、票券、批評まで、あらゆるブルシットジョブをそれなりの精度で叩き抱ける時期が来たら、その時がその時かもしれない。

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