傷つく人をみて心が晴れるとしたら
小学校の「道徳の授業」で習ったようなこと。もう誰が考えても、こういうことはいけないよね、こういうことはいいことだね。とわかるようなこと。そういうほんの少しだけどみんなに共通のなにか大切な感覚があるのだと思っていた。
それが覆るようなことが目の前で起きた。
そこには悪意がたしかにあって、生み出された言葉は一貫して攻撃性をもっていた。本当はそういうことを一番憎んでいると思っていた人から発せられたものだった。
他の人から嫌なことをされて苦しんでいたことを知っていたから、その子に限ってそんなことはしないだろうと疑わなかった。
でも、、、ふと考える。
そうやって自分を守ってきたのか。
人に痛めつけられることが重なっても、だれも守ってくれなかった。それでも日々は繰り返す。こころがおかしくならないように、自分の価値を、自分で主張しつづけなければいけない。自分だけが正しい、周りはみんな間違ってる、と思うようにさえなる。自分と違う意見は、否定しないと生きていけない。それが結果「攻撃」という形で現れる。
ほんとうは攻撃したいんじゃなくて、自分を守りたいだけだったのかもしれない。攻撃性をもった言葉、そういう言葉のうしろがわにはどんな人生があったんだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。こうして言葉を介して繋がれることがとても嬉しいです。