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知識とエロス考 ( プラトン『饗宴』に拠る )

注意:申し訳ありませんが、この記事はえっちな記事ではありません。


 IT業界に身を置いているから特に感じるのかもしれないけれども、最近、教育ビジネスが盛んなように思える。

 未経験者歓迎のスタンスで開かれるプログラミング言語の講座、最新技術である人工知能やブロックチェーンの勉強会、学習アプリなど、知識を求めることを目的としたビジネスが、日に日に増しているようだ。


 僕自身、知らないことを知ろうとする気持ちが大分強いほうだし、勉強することがそもそも好きな人間だ。
 ビジネス云々と書き出しているものの、この1年で資格は6個くらい取ったし、機械学習の勉強会にも通ってしまうような、言わば彼らの、格好のお客様である。


 何かを学ぶということはとても楽しいものだ。
 けれども、学ぶだけでよいのかという気持ちが、最近心に生まれている。

 そんな折、プラトンの『饗宴』を読んで思うところがあった。
 今回の文章では、そんなところについて考えていく。


知識欲とエロス

 知らないことを知ろうとする気持ちを名状するならばそれは、知識欲というべきだろう。
 ただその名前は、その欲望の理由を明快に説明しない。

 知識を求める欲望の表膜の一層下には、何か別の、もっと根源的な欲望があるように思えてならない。それに対する一つの回答を、ソクラテスはこう語る。

知恵は最も美しいものの一つであり、エロスは美しいものを求める愛だ。だから、エロスが知恵を愛し求める者であるのは理の当然といえる。
 『饗宴』 プラトン

 人間には美しいものを求める欲求、エロスがある。知識は美なるものの一つである。したがって、エロスは知識を求める。
(ここでは知恵を知識と読み替えるものとする。)


 ソクラテスのエロス論を借りてみると、知識欲にいくらか明瞭な形を与えることができるように思う。
 それは美なるものを求める道程の一つなのだ、と。

 僕の内に最初から在った知識への欲求は、人間の本性的な欲望に根差すもののようだ。僕と同じような人は数多く居る(特にお勉強会やスクールの中には)だろうけれども、彼らも僕も、きっと根は同じなのだろう。


 けれどもここで最初の問題に戻る。僕は今、疑念を抱いてるわけだ。
 果たしてこのまま楽しく知識を得ているだけでよいのだろうか、と。

 エロス論を容れるならばいま僕は美の追求の道程にあるわけで、知識そのものが美であるとすれば既に僕は幸福でなければいけないと思う。だがそう思えない。なぜか。


エロスと所有


「人々はよいものを愛し求めていると言うだけでよいか?」
 はい、と僕は言った。
「しかしどうであろうな」と彼女は言った。「これに付け加えて、人々はよいものを自分のものにすることも愛し求めていると言うべきではあるまいか?」
「付け加えるべきです」
 彼女は言った。「さらに、人々は単にそれを自分のものにすることではなく、永遠に自分のものにすることを愛し求めているのではあるまいか?」
「それも付け加えるべきです」
「では以上をまとめると、こうなる。エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めているのだと」
 『饗宴』 プラトン

 学生を経験したすべての人にとって自明なように、知識はわりとすぐに失われる。覚えた事柄の数々は、あっという間に手の間から零れ落ちていく。

 僕らには所有欲というものがある。それは対象の可視、不可視を問わずに発揮されるものだ。大人になったら自分の家を欲しいと思うし、愛する人には一生自分の隣にいてほしいと思う。

 この欲望は当然、エロスが求める美としての知識に対しても有効だろう。一度得た知識は永遠に覚えておきたい、と。そして前述の通り、この願いは往々にして、叶わない。


 『エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めている』のに、求めても求めても失われ失われゆく。

 知識の蒐集を行うものにとってはきっと一生付きまとう問題であるし、僕が今感じている虚しさの一端もここにあるのかもしれない。エロスが、満たされていないのだ。


 が、このことは何も知識に限ったことではないだろう。およそ美なるもにして、その形を失わないものはない。

 では、エロスはどのようにして達成されるべきなのだろうか?


エロスと子供

 彼女は言った。「では、エロスとは常にそのようなものなのだとしたら、どんなやり方で、その対象を追い求めるのであろうか。その働きとは、いったいどんなものなのだろうか。...
 その働きとは、美しいものの中で、子をなすことなのだ。これは、体の場合であっても、心の場合であっても、同様にいえることだ」
 『饗宴』 プラトン

 およそ全てのものは滅びゆく。そしてエロスは、その滅びとは真逆の、不死性を追い求める欲求に他ならない。

 ではいかにして不死性を実現するか。 
 それに対するソクラテスの回答が、「子供」だ。


 子供を成すことがどうして不死になるのだろうか。

 そもそも永遠ということを考えたとき、それは完全に同一な状態を無限の時間において維持するという意味ではないということに気づく。

 ある人間であっても、事象であっても、社会にしても、その存在は常に微小な更新を伴う。人は成長し、事象は変化し、社会は構造を組み替える。

 対象の更新が留まらないことを永遠と呼ぶ。
 とすれば、自分の子を成すということは自分の遺伝子の更新であり、すなわち永遠、すなわち不死の獲得へと道がつながる。


 そうした論理で、ソクラテスはエロスの達成に子供を成すことを結びつけるのだ。

 氏が述べるように、これら人間の子供に限定した話ではない。
 王の子供は徳であり、詩人の子供は詩だ。
 彼はそのように子をなすことで、自らのエロスの達成を図ったのだ。


 さて、もう一度最初の疑念に戻る。
 知識欲を満たし続けるだけで満足してよいのだろうか。

 この僕の困惑に対する答えは、おそらくNoなのだろう。
 それはエロスに突き動かされた故の行動であるけれども、エロスを達成するための行動ではない。

 ではエロスを満たすにはどうすればよいか。
 それは子供を成すこと、すなわち、自分の知識を結実させること。

 それが今の僕に必要なことなのだよと、ソクラテス先生は僕に語り掛けている気がする。


エロスと段階

 もう答えは考察し終わったけれども、最後に自分を励ますような文章を引用しておきたい。

 世の中には最初から自分の子供を作れる人もいる。企業が生み出すブームに飲み込まれ浅はかな知識欲を満たしていた僕は、なんと愚かなのだろう。

 という感情に溺れそうな故に、ソクラテス先生に励ましてもらう。

 

「この道を正しく進もうとするものは、次のようにしていかねばならぬ。まず、若い時に、美しい体に心を向かわせるところから始める。
...そのものは最初は一つの体を愛して、そこに美しい言葉を見出す。
...あらゆる体における美しさは同一なのだと気づけば、すべての美しい体を愛するものになろう。
...その後、彼は心の美しさのほうが体の美しさよりも尊いと考えるようになる。
...彼はもはや、一つの美の奴隷になってしまうような、視野の狭い人間ではないのだ。」
 『饗宴』 プラトン


 初めからエロスを達成できる人はいない。エロスの達成には、段階があるのだ。
    下層の美に気づいて、歩を進め、より上位の美へと近づいていく。

 そう考えれば、今の僕の停滞は必然のように思えてくる。


 ソクラテス先生よ、悠久の時を経てのご教示、どうもありがとう。
 願わくば僕と同じ道にある人にも、エロスの達成のあらんことを。


饗宴 (光文社古典新訳文庫)
光文社

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