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「成功と学び」について福沢諭吉と落合陽一から考える

 タイトルの通り、「成功と学び」ということについて福沢諭吉さんと落合陽一さんの二人の考えを元に考えていきます。

 研究家では無いので、各人の本テーマに対するスタンスを適切に捉えられていないかもしれません。また、筆者主観による恣意的な論旨切り取りがあるかも分かりません。なるべく回避する様にしますが、ご容赦ください。

 今回底本にしたのは、次の2冊です。



福沢諭吉の考える「学び」


氏の言葉で最も有名な言葉は、言わずもがな、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」でしょう。

一見すればこの言葉は、個人の自立とは正反対のスタンスを取っているように見えます。人間同士が本質的に平等である、という指摘はともすれば社会主義的であり、個人の成長や自立を必ずしも要求しないように考えられるからです。

しかし、氏の述べたい本質は上記の通りではありません。この名言には続きがあります。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と 泥 との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『 実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり

「人間は確かに本質的には平等である。しかし、世の中を見てみれば人々の間に格差が生じているのは明確だ。このような格差は何故生じているのかといえば、それは各人の"学"の有無によるものだ。学び続けるものは賢人となり学ばないものは愚人となり、そうして今の社会におけるような格差が生じていくのだ

氏が述べているのは、このようなことです。つまり氏は「天は人の上に人を作らず」に甘んじることなく、学び続けることで賢人となれ、と述べている訳です。

この文章における「賢人」を「他者に優れた人」と解釈し、「成功する人」と読み替えます。即ち氏の考えは、「学び続けることで成功者となれ」と捉え直すことができます。


何を学ぶのか?


氏は「学ぶこと」を通じて賢人になることを勧めています。
では、学問であれば何を行っても良いのでしょうか。

学問という言葉で先ず連想されるのは、「文学」や「化学」などの芸術・学術性の強い分野です。それらは、その純正が増せば増すほど現実世界から乖離していく性質のものであるように思われます。

氏は学問対象としてそれらを否定はしていません。しかし、それらが独立して価値あるものだとは考えていません。

学問とは、ただむずかしき字を知り、 解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。( 中略 ) 古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。( 中略 ) 畢竟 その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり

「著名な漢学者または歌人であり、かつ良き夫あるいは良き商売人である人は少ない。それらの学問は実利に合っておらず、普段の生活に直接的に役立つものでは無い」

純粋学問の領域には魅力的な知識が溢れています。それは周りの人の多くが知らないことであり、それらを身に着けること、あるいは使いこなせるようになることが学問の目的になってしまいがちです。

けれども氏が述べるように、学問が純粋であればあるほど、それは日常で必要とされる知識から離れていくものです。世間で必要とされているのは、ブラックホールの構造を説明できる人よりも、良い家庭を築くことのできる人なのです。

従って、ここで言われる「賢人になるための学び」の対象は「純粋学問」であるよりはむしろ、「日常に役立つ学び」であると言えます。

では具体的に何を学べば良いのでしょうか。

それは、「日常に転がっているあらゆるもの」です。
学ぶべきものとは、小さな箱に綺麗に収められた知識の羅列ではなく、無尽に広がる草原に点々と生えている種々の花なのです。

ゆえに世帯も学問なり、帳合いも学問なり、時勢を察するもまた学問なり。なんぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問と言うの理あらんや


「成功」と「学び」


氏は、「学ぶことで賢人(成功する人)になれ」と言いました。

そしてその学ぶ対象は、純粋学問ではなく、世間に在るあらゆるものであると読み解くことができました。

以上をまとめると、氏の主張は次のように書くことができるでしょう。

「人間は本質的に平等である。けれども社会には格差が溢れている。それは学び続ける人と学ばない人の差によって生じているのだ。学ぶと言っても、机上で行われるだけの学問には大きな価値はない。学ぶべきなのはあらゆること、あらゆるものについて、である。そうすることで、人は賢人(成功する人)になることができるであろう


落合陽一の考える「学び」


氏は「現代の魔法使い」と呼ばれる先端技術の使い手であり、メディアアーティストであり、大学教授であるという、とてつもない人です。

天才肌の方はよく周りを顧みない行動をされると聞きますが、氏は様々な媒体を通して僕ら凡人を啓蒙しようとしてくれており、必ずしも遠い存在の人ではありません。

氏の著作は多数に渡りますが、今回底本としたいのは「これからの世界をつくる仲間たちへ」です。学生などの初学者へ向けたトーンですが、むしろ大人の方が学ぶことが多い良書です。


さて前置きはここまでにして、氏の「学び」観についてです。

氏は、コンピュータ全盛の時代において旧時代的な学びを続けることに対して警鐘を鳴らしています。

自分の専門ではない分野では、一人の消費者として「なぜそうなるか」を理解しないままその利便性を享受していればいいでしょう。( 中略 ) しかし、ひとつも魔術を知らないようでは「コンピュータの下請け」的な人生しか待っていません。( 中略 ) ロールモデルのないオリジナルな価値観をもつ人間になろうとするなら、何かの「魔術師」になるのが一番です

Wikipedia が存在しなかった時代、広範な知識を持っている人はそれだけで重用されていました。しかし今は、不明なことはグーグル先生に聞いてしまえばものの数秒で答えを得ることができます。それはつまり僕らが身に着ける知識の価値相場が大きく変動した、ということに他なりません。

そんな時代にあって価値ある学びとは、「魔術師」になることだと氏は述べます。「魔術師」とは、「他の人から見たら魔法のように見える技術や驚くべき知識をもつ人」と解釈できます。

大衆から抜きん出た存在になりたい、そう考えるのであれば自分しか知り得ないような、秘匿された魔術のような分野にこそ手を染めろと氏は述べます。


また氏は、学びの姿勢についでも言及しています。

次の文章は、本書冒頭で子供にプログラミングを学ばせる親を引き合いに出した上で語られるものです。

多くの分野にとってプログラミングは道具にすぎず、算数と同じようにツールであり、それ自体が目的化しては意味のないものになってしまいます大事なのは、算数を使って何をするかということ。だからそれと同様に、プログラミングができるだけでは意味がない。

これからの時代はITだ、なんていう言葉はそろそろレガシーかもしれませんが、それでも教育現場にプログラミングの授業が追加されるなど、プログラムに対する世間での関心が高まっているのは間違いありません。

それに対し氏は上記のような考えを示します。あくまでプログラミングは「道具」でしかなく、大事なことは「道具を使って何をするか」だと。


上の考えと合わせれば、「魔術的知識そのものに価値があるわけではないその知識で以て何が出来るのか大事であり、そしてそれが魔術的であるが故に他の人には真似できないということが重要なのだ」という風に落とし込むことが出来るでしょうか。


何を学ぶのか?


これは先ほど重複するところがあります。
既に述べているように、氏が提唱する学びの対象は「魔術」です。

ではこの点について、もう少し掘り下げてみましょう。僕たちは具体的に、どんなことを学べば良いのでしょうか。


結論から言ってしまえば、何を学べば良いのか、という疑問そのものを氏は暗に否定しています。

結論から先に言うと、いくら勉強しても、それだけではクリエイティブ・クラスにはなれません。( 中略 ) クリエイティブ・クラスの人間が解決する問題は、他人から与えられるものではありません。( 中略 ) 彼らの仕事は、まず誰も気づかなかった問題がそこにあることを発見するところから始まります。( 中略 ) 教科書を読んで勉強するのがホワイトカラーで、自分で教科書を書けるぐらいの専門性を持っているのがクリエイティブ・クラスだと言ってもいいでしょう。

勉強するということは即ち先人の徹を踏む、ということであり、情報氾濫時代にあってそれは自らをクリエイティブ・クラスへ推し進める手には成り得ないと氏は述べます。

ただこれは過去に倣うな、ということではありません。先人を偉業をコピーすることは個人の力になりますし、それ自体は氏も推奨しています。ただそれ自体がクリエティブな所業に取って代わることは無い、と述べているのです。

山中教授だって、研究のための勉強はたくさんしたでしょう。でも、それは次のステップへ進むための大前提でしかありません。新しい問題を発見して解決するのは、「勉強」ではなく「研究」です。

過去を蓄え、未踏の未来を志向する。

これが氏が一貫して提唱する、学びと成功に関するスタンスであるように思われます。


「学び」に背を向ける人


氏が述べる学びは、オリジナルな人物になるという目的の元で謳われるものです。
では、逆に学びを行わない人はどうなってしまうのでしょう?

氏の言葉を借りれば、学びを行わないということはつまり「魔術」を「魔術」のまま受け入れるということです。原理は分からないけれども便利だからいいや、のスタンスで日々を生きることと言えるでしょう。

魔術を身に着けるのはあくまでもオリジナルな人物を志向した時の話です。従って、そうであることを望まないのであれば魔術師になる必要は無いのですから、上記のようなスタンスであっても問題はありません。

しかしそうして生きる時、僕たちは背後から迫るAIの足音に注意を払わなければいけません。

では、人間とコンピュータはどちらがどちらを飲み込むのか。多くの人は、コンピュータを作った自分たち人間のほうが上位種だと思うでしょう。でも僕の直観では、コンピュータのほうが後発で、より情報処理に最適化された種のように思うのです。

魔術を使えない人には使えない人なりの幸せがあります。そこで送ることができるのは、魔術師よりも幸せな日々かもしれません。

けれどもいつの日か、魔術師の魔術に村を焼かれ、我が身一つで荒野を彷徨う日が来てしまうかもしれません。

そう考えると、どんな人でも何かしらの魔術を身につけておくべきだとも思われます。

燃え盛る火を消す魔術は使えなくとも、追い出され辿り着いた先で灯りを灯す魔術を持っているならば、どこへ行っても生きていくことができるでしょうから。


「成功と学び」について福沢諭吉と落合陽一から考える


ここまで、福沢諭吉さんと落合陽一さんにおける「成功と学び」観を簡単に俯瞰してきました。まとめの前に、もう一度両者の考えを総括して、比較してみましょう。

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福沢諭吉
「人間は本質的に平等である。けれども社会には格差が溢れている。それは学び続ける人と学ばない人の差によって生じているのだ。学ぶと言っても、机上で行われるだけの学問には大きな価値はない。学ぶべきなのはあらゆること、あらゆるものについて、である。そうすることで、人は賢人(成功する人)になることができるであろう」
※筆者主観による意訳
落合陽一
「ひとつも魔術を知らないようでは コンピュータの下請け 的な人生しか待っていない。けれども魔術的知識そのものに価値があるわけではない。その知識で以て何が出来るのか大事であり、そしてそれが魔術的であるが故に他の人には真似できないということが重要なのだ。そうして魔術師になった時、初めてオリジナルな人物(成功する人)になることができるだろう」
※筆者主観による意訳


・学びにより目指すべき到達点は、両者ともに同じであるように思います。前者は「賢人」、後者は「魔術師」と異なる様相を呈してはいますが、何れにしても「他に優れた人」という点で符号しています。成功を志す上で、何かを学ぶことは不可欠で在ると判断できます。

・何を学ぶか、という点については相違が見られます。

前者は「学問に限らない全てのことを学ぶべき」と述べます。これは、狭い領域での学問は現実世界に直接影響を及ぼさない、ということを起点にし、日常生活を構成するあらゆるモノ・コトが学びの対象で在るべきだという論理に基づいています。

後者は「他人の知らない魔術的な知識を学ぶべき」と述べます。これは、情報社会において誰もが知っていることの価値が薄らいでいる、ということを起点にし、検索しても取得できないような知識・情報を身に付けることが肝要だという論理に基づいています。

この2点は、単に時代性の違いという言葉で片付けられない様に思われます。というのも、福沢諭吉さんが生きていた時代は諸外国との国交開通により異国文化流入が盛んで有った時であり、落合陽一さん述べる所の「魔術的」要素を志向することも十分できたと思われるからです。

・学ばなかった場合の行く末については、両者ともに同じ見解をしていると思われます。ただし、深刻度は後者の方が増している様に見えます。前者は「愚人になる」と言及しておりそれは社会における相対的な身分の失墜ではありますが、後者では「AIに取って代わられる」という指摘がされています。これは地位が絶対的な意味において侵害される可能性を孕んでおり、「学ばない」ことの価値の変動が見られます。


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学ぶ目的、学ぶ対象、学ばなかったことによる影響。
その3点について、両者の考えを比較をしてみました。

両者ともに、成功する上で学ぶことは必須で在ると結論づけています。というよりも、大多数の人は学び続けないから、学び続けることで相対的に価値が上昇するとも読み取れる気がします。「賢人」にしても「魔術師」にしても、それは「他人とは異なる存在」です。むしろ、「他人とは異なる存在」のことを人は「賢人」あるいは「魔術師」と呼ぶのかもしれません。普通の人には出来ないことが出来る、あるいは知らないことを知っている、そういった希少性が生産するものが、成功という概念なのかもしれません。

学びの対象については両者に相違がありました。現実世界に存在するあらゆるものを学びの対象とすべきだと謳う福沢諭吉さんと、誰も知らない様なことを学びの対象とすべきだと謳う落合陽一さん。けれどもよく考えてみれば、この二つは、「他者と異なる存在になる」という点では符号しているのかもしれません。インターネットの無かった時代においては広範な知識を持つ人こそが他に画一した人物であり、インターネットのある時代においては検索出来ない知識を持つ人こそが他に画一した人物である。その様に読み解けば、両者は言葉こそ違えど、本質は同じことを述べていたのかもしれません。

学びを止めて仕舞えば、愚人になるか、あるいはAIに飲み込まれる。何れにしても好ましい未来にたどり着くことは出来ないという所で両者の意見は一致しています。けれども、十人並みになるぞと脅す福沢諭吉さんの言葉よりも、お前の居場所が奪われるぞと脅してくる落合陽一さんの言葉の方が、時代即応で念頭におくべきことの様に思われます。


まとめ

今回は「成功と学び」ということについて、福沢諭吉さんと落合陽一さんの著作を通して考えてみました。

この記事を書きながら考えたのは、成功とは絶対的なものではなくて相対的なものであるかもしれない、ということです。

賢人は愚人に優れているという点を以て規定され、魔術師は誰も知らない魔術が使えるという点で魔術師たり得ます。

成功を求めて何かを学ぶのであれば、それは他者の存在無しに行うべきものではないと両者の考えに触れて思う様になりました。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

以上


七色メガネ

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